集会案内
〇祈り会
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
〇教会学校
日曜午前9時~
〇バイブルカフェ
2月20日(木)10時半~
教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。
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豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!
豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。
聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。
日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。
次週礼拝
主日礼拝 主日礼拝
日 時 : 2月2日(日) 10時15分~
説教題: 「アクシデントがあっても」
聖書箇所 列王記上17章17節ー24節
使徒言行録20章1節ー12節
説教者: 阿部 啓牧師
2025年1月26日
「群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。」
使徒言行録19章32節より
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聖 書 出エジプト記32章1節ー6節
使徒言行録19章28節ー40節
○「法的拘束力」
・私たちが生活しているのは法によって守られている社会です。この法の守りというものは目に見えるものではありません。法的線引きがあるとしてもそれがロープを張ってあるかのように目に見える形で示されることは日常生活にはありません。
・それでも、法を破るような形で利益を得たりすれば刑罰や賠償が求められます。また法を破るような形で不利益を被ったり、傷つけられたりすれば法によって守られます。
・しかし言い分が食い違う場合にはどちらの言い分が正しいのか判断されなければなりません。そのような場合に裁判が行われるのが私たちの生きている社会だといえるでしょう。
・また、大多数の意見が全体の意見のように広まっていくと、それに結果が左右されることがあるのです。これはいつの時代でも起こりえることです。そしてそれが正しい方向性を保っていれば問題ないのですが、明らかに誤った方向だったとしてもそれが分からないまま先に進んでしまう危険があります。
・モーセの帰りが遅いため、モーセがどうなってしまったのか分からない、つまりモーセを導かれた神がどうなってしまったのか分からないと理解し、代わりの見える神々の像を造るようにアロンに願い出る民の姿があります。
・祭司としての働きを担うアロンであれば、冷静に考えれば神を造り上げることなどできないとかしてはならないことだと考えても良さそうなものですが、大勢の意見として迫られると拒否することが難しかったのか、新しく造り上げるものをもって神を礼拝しようと考えたのかはっきりとはしませんが、その場にいる誰もが神を造り上げることに異を唱えることはありませんでした。
・結果として人々は自分たちの金の耳輪から若い雄牛の像を造り「エジプトの国から導き上ったあなたの神々」として崇め、宴を開き始めました。ここには人々の不安から生じる神に対する背信が背後にありました。
・実際にはふさわしくないことだとしても、像を造って、それを崇めることで安心したいという人間的な思いが優先されたのです。主なる神ヤーウェ以外のものを神とすることは全く持って相応しくないことなのですが、人々の意見が全体を支配していたのです。
・明らかな過ちであるにもかかわらず、それがあたかも正しいことかのように受け止められる典型的な例だといえるでしょう。しかし、この後十戒を手にしたモーセの期間によって神の厳しい裁きに晒されることになるイスラエルの人々です。
・また、十字架の裁判においても同じようなことが言えます。イエスを十字架につけろと叫んだ人々のすべてが本心から叫んでいたわけではありませんでした。マルコ15.11には「祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した」とあります。
・扇動によってバラバを釈放しナザレのイエスを十字架につけろと誰もが叫び始めるのです。こうなるとその中で逆の意見の声は届くことはなくなっていきます。残念ながら大きな声にかき消されてしまう現実があるのです。
・法的な秩序はそこにはなく、あるのは人の思いによって導かれた恣意的な判断だけです。法が法として働くのは理性的な状態が保たられている時だというべきかもしれません。
・特に人は怒りに支配される時にそのような姿を露呈します。怒りで我を忘れるといった表現もあるほどです。冷静に考えれば決してしないような対応や態度を怒りにまかせて見せてしまうことがあるのです。
・それが個人的な感覚であれば、自分自身で注意することもできるでしょう。また、法に照らし合わせて間違っていると思えば踏みとどまることもあるでしょう。しかし、社会的な怒りとなると、そうもいかない現実が生じてしまいます。本心ではそうは思っていなくても、皆がやっていること、言っていることだから大丈夫だと思った。といった感じのことを聞くこともしばしばあります。
・本日のエフェソの町の人々も同じような状況にあったのではないでしょうか。一人一人の思いとしてではなく、エフェソの住民としてアルテミスを侮辱されたと理解し、反発を覚えるのです。
・「エフェソ人のアルテミスは偉い方」との叫びはまさにそのような反発を言い表しています。パウロのようなよそ者が勝手に何を言っているんだといった怒りが彼らの中に蔓延しているからです。その結果、町中が混乱してしまうのです。
・さらに32節を見る群衆は混乱を深め「大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」と言われていることから、人の流れに乗って集まってきてしまった人々が大多数を占めていたことが分かります。
・多くの人々が混乱状態でここにいるのです。そして、この混乱とは扇動にも通じる言葉です。怒りによる意見に支配された町は一致するのではなく、混乱していってしまうのです。
・そして無法者の集団と化してしまい、パウロの同行者であるガイオとアリスタルコを捕らえて、野外劇場になだれ込んでいきます。この野外劇場はセアトロンというギリシア語で表されていて、これは劇場を表すシアターの語源となった単語です。そして決して小さな劇場ではありません。
・この劇場は約2万4千人を収容できたといわれています。それだけの人を前に自分たちの正当性を証明し、パウロたちが間違っていることを確認しようとしたのです。
・30節にあるようにパウロは当然のように群衆の中に混じって劇場にいって、弁明する気でいました。しかし、アジア州の祭儀をつかさどる高官たちが劇場に入らないように頼んだと31節にあります。
・彼らは直訳すると「アジア州会議員」です。つまりローマに属する人々なのですが、そのような中にもパウロの友人と言える人々がいたのです。彼らは信仰的に同じ立場であったわけではありません。
・特に祭儀をつかさどる高官と言われているのは、ローマ皇帝を崇拝する儀式の責任を負っている立場だからです。これはローマ帝国にとっては大変重要な役割です。ローマ皇帝を神格化することで権力を集中させていたからです。
・それでも、エフェソで過ごす中でパウロと親しくなった人々がいたのです。異邦人社会の中で生きているわけですから、信仰をこえて友人関係が生まれることも何ら不思議ではありません。
・このことは私たちの生活人も通じることでしょう。よくよく考えてみると、キリスト教関連の友人より、それ以外の友人の方が多いということもあるかもしれません。日本のクリスチャン人口の割合を考えるとそれも当然のこととして受け止めざるを得ません。
・親しい間柄だと、信仰者であることを理解したうえで関わり合うこともあると思います。近所付き合いなどでもそういった関りがあるのではないでしょうか。それでも親しく過ごすことは十分にできるはずです。
・恐らくパウロはエフェソの高官たちと友好的な関係を作ることができていたのです。その背景にはパウロが相手と誠実に向き合っていた姿があるのではないかと思いますし、このような関係によってパウロは守られることになったといえます。
〇「書記官の判断」
・そして劇場ではどういうわけか、アレクサンドロというユダヤ人が押し出されて発言が求められます。彼がどのような立場で押し出されたのかははっきりしません。ユダヤ人とキリストについて語るパウロとの違いを示そうとしたのかもしれません。けれども、偶像礼拝を禁じるのは同じなので、群衆からすると何の違いもなく、「群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた」という火に油を注ぐ結果となります。
・そこに登場するのがこの町の書記官でした。彼は町を治める役割を担っていました。町で騒動や暴動がおこると責任を取らされる立場だったといっても良いでしょう。
・原罪町で繰り広げられている騒動は役人の介入なしに自然と収まる気配がないと判断したのでしょう。そして騒動が大きくなると自分の責任問題に発展してしまうことを危惧した部分もあると思いますが、ここでは極めて理性的な存在として登場してきます。
・群集心理によって冷静さを欠いている人々をなだめるために35節-37節の言葉を投げかけます。まずはエフェソのアルテミス神殿に対する思いに配慮し、その権威を認め、彼らの誇りに訴えます。パウロの言葉によって揺らぐような頼りないものなのかと訴えているのです。
・これは効果的な訴え欠けだったといえるでしょう。自尊心をくすぐるのはいつの時代も効果的です。もし意識的にそのような言葉を投げかけられていると分かったとしてもほとんどの場合気を悪くすることはないと思います。
・さらにパウロたち一行が「神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない」と断言します。確かにパウロはエフェソの人々の信仰自体を否定するようなことは語っていません。自分が語るべきキリストの福音を語っているのであって、相手を否定するのではありません。
・17.22では「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と語りかけています。わざわざ相手に敵対心をむき出しにして、あなたたちは間違っているということはしないのです。
・ただキリストの福音を語っていく中で、偶像礼拝が相応しいものではないことを語ることがあって、デメトリオたちのような造形職人ともいえるような人々の敵意を買ってしまったのです。
・書記官はこの点をしっかりと知っていたのです。パウロたちの言動にエフェソの人々の信仰自体を侮辱や、冒涜する意図はなく、純粋に福音だけを語っていたということを日々の姿から読み取ってくれたのです。
・この書記官がキリスト教に対して教護的な感も無きにしも非ずですが、そうしたところで彼にはあまりメリットはありません。ただこの場を治めよう考えた時に、騒動の発端となっている事柄についての判断をこの場で下すのではなく、正規の手続きを経るように促すのです。
・法の秩序はローマ帝国の生命線です。法に基づいて様々なことが決められることでそれが拘束力を持ち、秩序ある社会を生み出していくことになるからです。支配地域が広くなればなるほどこのような秩序は不可欠です。
・したがって書記官は自分の役割を忠実に果たしたというべきです。実際に彼は決してパウロ寄りではありません。「デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである」と38節,39節にあります。
・一つの提案は法廷は私たちでいうところの裁判所です。地方送時も年に数回巡回しているので、その時に訴え出ることも可能でした。とにかく、私的に解決しようとするのではなく、司法の判断を求めるべきだというのです。
・もう一つは「正式会議で解決してもらうべきである」とのことです。これは一か月に三回開催されていた会議で、私たちでいうところの町の議会です。ここに議題として提案して諮ってもらうべきだと提案しているのです。
・パウロを劇場に行かせなかった高官たちも、エフェソの町の書記官も群衆が理性的な状況にないことを十分に理解していたのです。だからこそ、当事者であるパウロがそこに行くことをやめさせ、群衆の言葉に即時に対応することを避けたのです。
・これは極めて賢明な判断でした。何よりも法の支配下にある国の在り方を体現するものでした。感情に左右されるのではなく、然るべき方法によって判断されることを優先したのです。
・このような社会的な法の守りは、私たちの信教の自由と同じように誰にでも適応されるものです。一般的な守りによって信仰生活が保たれているともいえます。
・もしかすると時代が変わるとそれもままならなくなってしまうような状況が生じないともいえません。歴史を振り返ると教会迫害の歴史が腹案れている現実があることを私たちは知っています。
・それでも私たちはどのような時にあっても祈りをもって誠実な信仰として、教会の歩みをなしていくのです。パウロも同じような姿を示していたからこそ、役人たちからの守りを受けることができたのです。
・私たちは社会と無関係に生きることなどできません。むしろ社会の中で信仰者として生きることが不可欠です。その時に信頼を損なうようなこと退けなければなりません。その一番の具体的な部分は法の順守ということに現れるといっても良いでしょう。
・法を守らないようなものが神の恵みを語ったとしても、聞く耳は閉ざされてしまうでしょう。教会が無秩序な集団であれば、誰も近寄りたくないと追われても仕方ありません。
・法によって秩序付けられていることが信仰のすべてだというつもりはありませんが、教会外の人々に伝道することを考える時、必要な姿の一つであることは明白です。
・特別に次元高いモラル場合もあるかもしれませんが、基本的には法に触れることがない生活を送ればよいと思います。そして隣人に対しても平和に暮らすことができればよいと思います。
・パウロはロマ12.17-18で「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」と語ります。
・キリストに倣う信仰者の歩みの基本がここに示されているのではないでしょうか。
・そして書記官は最後に法の力を示して群衆を解散させます。「本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ」との40節の言葉です。
・無秩序な集会は暴動とみなされるのです。そしてそのような状況を厳しく取り締まっていたローマ帝国の現実があったことを考えると、ある程度冷静になっている群衆はそれ以上騒ぎ立てることが危険であることに気づかされたはずです。
・書記官の言葉を受けてこの場は解散されます。法の秩序のもとで守られたパウロたちだったということができるでしょう。しかし、社会的な秩序における守りを恵みとして受けただけではなく、神の特別な恵みの中で導かれている伝道旅行であることも私たちに希望として示されています。
・というのも社会的な制度や環境などによって示される恵みのみならず、神さまの特別な恵みによって守り導かれる信仰の歩みがあることに思いを向けさせられるからです。
・私たちは目に見えるところで示される恵みだけではなく、信仰によって備えられている確かな恵みを受けてこの命を生きることができるようにされています。
・そして特別な恵みを受けている者として生きる喜びを少しでも宣べ伝えることができれば幸いです。主から受ける恵みは独り占めするようために与えられるものではありません。
・すべての人が神さまと共に生きるために与えられる恵みだからです。パウロの伝道旅行はまさに異邦人に向けて神の恵みである福音を語る旅でした。随分と長い時を経ていますが、この伝道旅行の実りが私たちです。
・福音がすべての人に宣べ伝えられること誰よりも望んでおられるがイエスさまです。イエスさまに倣うべき信仰者とされた私たち教会です。主イエスによって整えられたまことの秩序の中で、世の混乱に飲み込まれることなく、神さまに対しても世に対しても誠実な歩みをなしてくことができれば幸いです。
私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。 |
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今週の聖句
そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
ルカによる福音書13章29節より |
教会全景
礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
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