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新型感染症関連
感染症予防対策の上、以下のとおりに集会を開催いたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
6月16日(木)10時半~

教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 
日 時 : 5月22日(日) 10時15分~
説教題: 「死と復活の予告」
聖書箇所 ヨブ記16章9節ー17節
     マルコによる福音書10章32節ー34節
説教者:  阿部 啓牧師 

       2022年5月15日説教要旨
    マルコによる福音書10章23節ー31節
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
           マルコによる福音書10章25節より

〇「弟子たちとの会話」
・会話内容というものは話し相手で随分と変わるのではないでしょうか。同じことを話すにしても、相手との関係性やその事柄に関する理解度によっても大きく変わってくるものです。
・環境や場面によっても変わることも考えられます。家庭で話すことと会社や学校などで話す会話が全く違うこともあるでしょうし、言葉を発する頻度も違うこともあると思います。
・イエスさまが様々なことを率直に語られた相手は弟子たちでした。それだけ弟子たちはイエスさまからして身近な存在でした。そして、イエスさまが語られる教えを最もよく聞いてきた人々でもあります。
・イエスさまがしばしば群衆から離れたところで弟子たちに打ち明けるように話をされることがあるのはこのためです。家族に親しく話されるように話されるのです。
・イエスさまが語られる内容は一貫していますが、相手によって言い回し、表現は使い分けられているように思います。特にこの箇所では、財産をたくさん持っていたために、気を落とし、悲しみながら立ち去った人には直接語られなかった言葉が弟子たちに向けて語られています。
・本日の冒頭の「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」との御言葉です。あの金持ちの人に直接この言葉を語っていたとすれば、彼を打ちのめす決定打となるような言葉です。
・彼が悲しみ去っていったのは、自分の財産を手放すが惜しかったからであり、神の国をあきらめたわけではなかったと思います。だからこそ現状に落胆を覚えたのであり、この後に彼がどうなっていくかは分からない状況では語られなかったのです。
・けれども、弟子たちを前にははっきりと「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と語られます。これは弟子たちに驚きを与えます。
・ギョッとするのです。うろたえるのです。主の教えは時に私たちの理解をはるかに超えて語られます。自分が考えもしない言葉に遭遇すると驚くほかないのです。
・それだけ途方もないことを語っておられると言えますし、弟子たちを信頼して語っているとも言えます。そして、このことは弟子たちのみならず、この物語を聞く今の私たちに対しても言えることです。
・イエスさまが語られるこの言葉を聞く信仰の耳が備わっているのかどうかです。相応しい聞き手としてこの物語を聞くことができるかどうかは、どの聖書の御言葉と向き合うにしても求められることです。
・主イエスの教えを直接聞いた弟子たちですら驚きを覚えるのですから、私たちが驚きを持つのも、理解するのが難しいのも無理がないとも思います。
・それでも主イエスは私たちの救いのための御言葉を語り示されます。これは分からないならば仕方ないといえることではありません。
・完全に分からなくとも、少しでも分かるように様々なことをもって語ってくださいます。そこで語られるのが、さらに大きな驚きをもたらすたとえです。

○「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
・驚きを覚えている弟子たちに追い打ちをかけるようにイエスさまは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られます。
・これを受けて「弟子たちはますます驚いて」と記されています。この「驚いて」は先程の驚きよりも一段階上の驚きです。いわば茫然自失で、恐怖で動揺したり、震えたりする状態です。
・もう何が何だか分からないのです。イエスさまは救われたものとして神の国に入るために語られているのですが、弟子たちには理解できないのです。
・なぜ弟子たちはこれほどまでの驚きを覚えたのでしょうか。それは彼らがそれだけ真剣に神と向き合うこと、そして神の国の救いを求めていたからです。
・イエスさまが語られたことは、一言で言えば、誰一人として神の国に入ることはできないということだったからです。・真剣に求めているのに、目標とすべき所にどうあっても到達することができないというのであれば、その落胆たるやはかり知れません、もう立ち直れません。
・しかし、この物語全体で聖書が語り示そうとしているのは、単に財産が悪いということではありません。貧しさをたたえたり、勧めたりするようなものでもありません。
・確かに、金持ちが神の国に入ることができないことを語っていますし、らくだが針の穴を通ることなどできるはずもないのですから、不可能だと言い切っているわけです。
・しかし、それが金持ちかどうかにだけかかっているわけではありません。金持ちの姿を思い起こすと、彼は財産を手放すことができずに落胆し、悲しみながら帰っていきました。
・このことは、神の救いよりも地上の財産を優先している姿をはっきりと示すものです。神の思いに目を向けようとすることから離れ、地上で手にしている豊かな財産から目を離すことできないのです。
・イエスさまの指摘はここにあります。神の大いなる救いの御業を見ることなく、地上の人間的な所に留まっているならば、決して神の国に入ることなどできないのです。
・もう少し掘り下げるならば、私たちが一番大切にしているものを棄て去らなければ、神の国に入ることができないと言われているのです。
・これまで自分が一番頼りにしてきたものを棄て去らなければならないのです。今まで頼ってきたことを棄て去り、これからは神に頼って生きることを選ぶことが求められるのです。

○「人間にはできずに神にはできる」
・そうなると、私たちに様々な努力が求められるかのように思われるかもしれません。弟子たちに、誰一人として神の国に入ることができないことが突き付けられた今、「だれが救われるのだろうか」との議論が始められていきます。
・弟子たちは神の国に入る条件を自分たちに見出そうとしているのです。イエスさまはそんな彼らを「見つめて」語られます。
・イエスさまが見つめられているこの視線は、愛と慈しみに満ちた視線です。彼らを憐れんでおられるイエスさまの視線です。
・目の間のあなたに、神の国について少しでも理解が深まり、救いにあずかることができるように、という深い愛と配慮に満ちた御言葉が語られるのです。
・それが「人間にできることではないが、神にはできる。」です。これまで頼ってきたものを捨てて、神に従うこと、頼るべき唯一の神と共に生きることを求めるに際しても、そこにあるのは人の努力ではなく、神の御業のみです。
・人間にできることではなく、神にはできることだからです。神の救いの御業において人間の可能性は全くないのです。むしろ人間の可能性が尽きた所に、神による無限の可能性が現れるのです。
・それでも、ペトロは自分のこれまでの歩みに、誇りを捨てることができません。すべてを捨てて、イエスさまに従ってきたと言い出すのです。
・しかし、これも金持ちの男と同じ主張です。自分はこれだけのことをしてきた、すべてを捨ててあなたに従ってきたではないですか、との訴えです。
・今イエスさまはまさにこう言った自分中心の従う姿では神の国に入ることはできないと語られているにもかかわらず、神から与えられる賜物よりも、自分の言動に執着するのです。
・イエスさまがここで求められているのはただ一つ、「神にはできる」ことが確認されることです。そして、神の国に入るために喜んで、聞き従う道を歩み始めることなのです。

○「発想の転換」
・29節以下のイエスさまの教えは、かなり分かりづらい文章です。その一つ一つを明らかにすることは難しいものです。
・また、これらの実践が神の国への条件として提示されているわけでもないでしょう。とくに「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも」とありますが、次のような記事もあります。
・Ⅰコリント9.5「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」とあり、ケファつまりペトロが妻同伴での伝道旅行をしていたことが記されています。
・福音のために地上の関係をすべて棄て去ることを求めているわけではないことが示されるのではないでしょうか。
・また、無理やり棄て去ることを求めているわけでもないでしょう。
・金持ちの男に対して、冒頭の一言を投げかけることなく、考えさせる機会を与えられたイエスさまの姿が想い起されます。
・おそらく、私たちは無理に捨てさせられるようなことになったならば、余計にそれに縛られ、執着することになってしまうと思います。
・神に従おうとこれまでの頼ってきたものを棄て去るには、神から与えられる恵みを受け取る感謝を最上のものとし、これまでの自分を自覚的に棄て去るのです。ここにこそ、神以外には頼らない真の自己放棄があります。
・そして、これは自分自身が失われることではありません。むしろ神と共に地上のものに縛られることなく、自由に生きる新しい命の道です。
・それまでの自分を捉えていた一切の地上的な価値に縛られるのではなく、神の祝福に満ちた恵みに最大の価値を見出し、信仰をもって応える道へと進み出ていくのです。
・それが「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」としてあらわされるのです。これは順番を争うものではありません。
・そもそも何の順番かもはっきりとは分かりませんし、信じた順番が問われるのであれば、救いが地上の時間に縛られるものとなってしまいます。
・そうではなく、私たちが思っていること、理解していることとは真逆のことが起こることを教えておられるのです。というのも私たちの思いと神の思いは正反対であり、救いにあずかる者はこれまでとは全く違う神の思いに聞き従う道へと導かれていくからです。
・主の教えを理解するのが難しいのも仕方ないと言いましたが、そこには私たちの知識や思いが立ちはだかっていることを覚えていただきたいのです。
・私たちが自分自身をとらえている地上のもの、人の思いに生きるにではなく、神にとらえられたものとして歩み始めるのです。
・信仰をもって生き始めることを「回心」と言われます。
・私たち人間の思いの向きが回転して、神の方へと向けられることをあらわしている表記です。地上に向いていたあなたの心が、神の方へと向けられるのです。
・「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」という、あり得ないことが私たちのうちに起こるのです。ただただ、神の恵みとして私たちに与えられる永遠の命の道が始まるのです。
・そして、この永遠の命に至る歩みが、主の再び来てくださる時に完成されることを知らされている信仰の歩みです。
・この確かな希望により地上に生きる私たちには、信仰による確かな力と喜びが与えられます。主が共に歩んでくださることを知らされ、福音のために生きる所に豊かな恵みが備えられることをもイエスさまは約束してくださっているからです。
・地上の事柄ではなく、天の御国を見上げながら、新しい一週間を始めていくのです。









私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。








今週の聖句 
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。 
右の御手、聖なる御腕によって
主は救いの御業を果たされた
          詩編98編1節

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牧師 阿部 啓(あきら)