集会案内
〇祈り会
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
〇教会学校
日曜午前9時~
〇バイブルカフェ
5月15日(木)10時半~
教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。
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豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!
豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。
聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。
日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝
主日礼拝
日 時 : 5月4日(日) 10時15分~
説教題: 「陰謀への備え」
聖書箇所 詩編31編14節ー17節
使徒言行録23章12節ー22節
説教者: 阿部 啓牧師
2025年4月27日
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」」
使徒言行録23章11節より
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聖 書 歴代誌上16章23節ー27節
使徒言行録22章30節ー23章11節
マタイ5.39に「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」というイエスさまのお言葉があります。
・このキリストの言葉に従うならば、悪人に出くわしても無抵抗で、相手の求めるままに差し出すことが勧められていると思われます。確かにイエスさまは柔和であることを勧められますし、十字架の出来事において、裁判で言い返すことなくすべてを受け入れました。そういった意味ではパウロが人々に対して弁明する姿は、言い返していることになるわけですから、イエスさまが教えていることに反しているのではないかと思われるかもしれません。
・しかし一方で、イエスさまは悪人や罪人の現実をすべて受け入れられたわけではありません。指摘すべきことは厳しく指摘され、時には強い怒りをもって人々に向き合われる姿を私たちは知っています。
・ヨハネ2.14-16の「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」」とある姿です。
・十字架の裁判でも、神殿を商売道具としている人々を叱りつけるのも、同じイエスさまです。それは神さまを中心に見ると一貫性があるものとして示されてきます。
・神さまの御心が行なわれるために口を閉ざすこともあれば、怒りを前面に出し叱りつけることもなさったイエスさまなのです。必要に応じて対応の仕方が変わるのです。
・確信のない対応の変化は不信感や頼りなさを感じさせますが、一貫した思いの中での変化は、全体を見る時に中心にあるものを一層際立たせることになることは言うまでもありません。
・パウロの一連の弁明の姿にも通じる部分があります。自分が捕らえられる時には、群衆の勢いに巻き込まれているといえるかもしれませんが、特に抵抗する姿は見受けられません。しかし、捕えられた後には、雄弁に語り始めます。そのために自らすすんで捕らえられたかのようにすら見えるほどです。
・パウロの周囲にいる人々は明らかに敵意向き出しで向かってきている人々です。その人々に対して示そうとしているのは、キリストの福音です。これはパウロの伝道活動の基本中の基本です。キリストの福音が伝えられるのであれば、できること、役に立つと思われることは何でもするのです。
・Ⅰコリ9.22-23「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」との基本姿勢を堅く持ち続けて、敵意を持つ人々の中でキリストを証しするパウロなのです。
○「パウロの発言から」
・パウロの取り調べを計画するのはユダヤ人ではなく、ローマ人でした。ローマの市民権を持つパウロを簡単に裁くことができないことへの恐れがあったことは間違いありません。ローマ市民は優遇されていたからです。正規の手続きなしに裁くことは、裁きにかかわった者からすると大問題です。
・もし手続きに不備があったとされれば、立場を失い人生が一変してしまうことも十分に考えられます。しかし、それだけでなくパウロと向き合う中でなぜユダヤ人からこれだけ責められるのか不思議に思い始めているのです。
・その原因を知るためにユダヤ人社会の議会である最高法院を招集し、パウロに弁明の機会を与えたのです。そしてここでもパウロは自分の信仰的な経験や知識をも柔軟に用いて、語るべき福音を語り、証しすることに終始します。
・パウロはここでの弁明に多くの言葉を費やすことはなく、四つの発言が記されているだけです。一つ目は1節の「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」です。
・ここでいうところの良心は、ユダヤ人社会においては律法に従った生き方です。これは人に対しての良心だけではなく、神に対する良心です。神と人との前にあって、やましい部分は何一つないと言っているのです。つまり責められるような覚えは何一つないと最初に明言するのです。
・しかし、これを聞いた大祭司アナニアは「彼の口を打つように命じた」のです。黙らせようとしているのです。パウロが神に対して正しく生きてきたと口にしたことに憤慨しているのです。
・ここに大祭司の感情的な対応があります。何か具体的な罪を指摘してパウロの口を打つならばまだしも、何の理由もなく黙らせて、裁こうとしているからです。
・これに対してパウロの二つ目の発言は3節「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか」との発言です。
・「白く塗った壁」とはマタイ23.27-28に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」とあるように、内面は汚れているのに、外側だけを美しく装う偽善者を比喩する表現です。
・同時にエゼ13.10-14では「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは憤りをもって、暴風を起こし、怒りをもって豪雨を降らせ、怒り狂って雹を石のように降らせ、すべてを破壊する。お前たちが漆喰を塗った壁をわたしは破壊し、地面に打ちつけて、その基礎をむき出しにする。それが崩れ落ちるとき、お前たちもその中で滅びる。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」と言われています。
・ここでパウロは、大祭司アナニアが外見的にはりっぱな存在で、律法に従って裁く権威を持っているように見えるのに、実際は律法に背いて裁こうとしているため、神に打たれるべき存在だというのです。
・何が律法に背いているかというと、何の証拠もなしに罪に定める不正な裁きだからです。そのような不正な裁きに対して、パウロは抗議の弁明をしているのです。レビ19.15などいくつかの箇所で「不正な裁判をしてはならない」とある律法の教えに反するものだからです。
・大祭司アナニアの姿は、神の律法よりも、自分の思いが先立ってしまっていることを示します。そしてそれに追従する人々の姿があります。「神の大祭司をののしる気か」との一言です。
・自分たちの大祭司を守ることが第一となっているのです。本来であれば、裁きの場において然るべき証拠や、証言が必要であるにもかかわらず、それらすべてを差し置いて、大祭司の言い分や人々の印象だけで裁こうとしている罪の現実があります。
・そして、この言い分に対しては、パウロは思いの外、簡単に折れて謝罪します。しかも聖書の言葉をもって応えるのです。出22.27「神をののしってはならない。あなたの民の中の代表者を呪ってはならない」に基づいて三つ目の発言をします。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています」との5節の言葉です。
・ただ、この一言も単なる謝罪の言葉ではないことは明白でしょう。大変皮肉めいた言葉です。大祭司アナニアに対して、そんな言動をする人が大祭司だとは思わなかったと言っているのも同じだからです。本当に大祭司ならばそんな裁きをするはずがないと暗に指摘するのです。
・自分が神の言葉に反して、指導者を悪く言ってしまったならば謝ります。では、あなたがたはどうなのでしょうか?と問いただしているように思えます。
・そして四つ目の発言として6節で「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と言います。
・これは議会の状況を判断しての発言でした。サドカイ派とファリサイ派にはユダヤ教でありながら決定的な理解の違いがありました。それが復活信仰を持っているかどうかです。
・サドカイ派は成文化されているモーセ五書の律法だけを認めていて、それ以外は認めないので復活、天使、霊などについて否定的でした。そして極めて現世的な信仰理解でした。
・一方ファリサイ派は旧約聖書全体を認めていて、復活や最後の審判を信じ、そこに向かうために律法を厳守することを重んじるあまりに、律法が形式化していってしまい、本来の目的から外れてしまうことになってしまいます。
・ただここで、パウロ自身が「ファリサイ派です」と断言していることに疑問を持つ方がおられるかもしれません。パウロはキリスト者になったはずではないかと思われるからです。
・しかし、ここでパウロが断言していることで、議会の思いが分裂します。ファリサイ派よりの意見を言い表したパウロは、ファリサイ派に守られることを望んでいたわけではないと思いますが、サドカイ派の人々と分裂させて、別の議論を生じさせたことが、結果的にこの裁きの場から離れるきっかけとなるのです。
・福音の為ならば、どんなことでもするという、パウロの一貫した姿勢の表れだともいえるでしょう。特にファリサイ派とキリストの福音の近い部分を利用したといっても良いのです。しかし、これも自分が助かるための手段ではなかったでしょう。むしろファリサイ派の人々の誰かにでも福音が届くことを願っての言動だったはずです。パウロはそれぞれの違いよりも共通点を示すことで、福音との接点としようとしたのです。
・それがどのような実を結んだのかを知る材料はありませんが、結果的に混乱が大きくなり「ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。」とあることは少しながら、ファリサイ派への伝道に希望が残されているように思います。
○「パウロに示された道」
・そして最終的には、千人隊長によってパウロは避難させられることになります。裁判の結果は先に送られていきます。この先に続く旅はパウロの伝道旅行であることはもちろんですが、弁明旅行の様相を呈してきます。この後ローマの総督、更には皇帝の前で弁明することになっていきます。
・しかしそれこそが、主がパウロに定められた道であることが確かに示されるのが11節「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」との主の言葉です。
・ここに至るまでの苦難に際しても、力強く主を証ししてきたパウロです。弁明も自分の身を守るためではなく、福音を伝えるという一事の為でした。そしてそれらはこれから向き合うことになる、ローマの権力者の前での弁明の備えだったともいえるのです。
・この11節の言葉は主のご計画がパウロに示されたことを意味します。そして主のご計画が示されたことは、そのご計画が必ず行なわれることを意味するのです。
・「勇気を出せ」との主の語りかけがどれほど希望を与えるものか計り知れません。それは私たちの人間関係において、大切な人や憧れの人からの励ましから受ける希望とは全く性格が違います。確かにそういった人物からの言葉で、強められて頑張ることができた経験があると思います。
・そのような励ましは、不安の中で自分を奮い立たせるための励ましです。先がどうなるか分からない中で頑張る力の源だといえるでしょう。
・しかし主はパウロに「勇気を出せ」に加えて「ローマでも証しをしなければならない」と命じられるのです。しなければならないといわれていることに注目したいのです。
・強制されるのはあり得ないなどと思ってしまうのは現代的な思考かもしれません。確かに不確かで理不尽な強制はあってはなりません。しかし、ここで命じれられているのは、強制ではなく目的のためです。
・パウロには為すべきことがある。しかも主のご命令によって示されたことであるならば、これは必ず実現することが示されるのです。つまりパウロは必ずローマで証しすることになるのです。
・そこに至るまでにどのようなことがあろうと、必ず主はパウロをローマへと導かれるのです。このエルサレムでの一連のやり取りも、大変厳しい状況がありながらも先に進められています。決して立ち止まることはありません。どのようなことがあっても、ローマに向かって歩みが進められていくのです。
・主の御業が行なわれるとはそういうことです。私たちの思いとはかけ離れたことであっても、主のご計画の中で用いられることがいくらでもあるのです。例え苦難の中に置かれたとしても、そこで福音を宣べ伝える姿が、勇気をもって主を証しする業として用いられます。
・それは一人一人の信仰の歩みにとどまらず、教会としての歩みにおいても当てはまることでしょう。地上の歩みは順風な時ばかりではありません。逆風の時、苦難の時がいかに多いことか、と主に嘆きを訴えたくなることもあるかもしれません。
・それでも、主なる神は、イエスさまははっきりと「勇気を出せ」と語りかけられるのです。これは無責任な励ましではありません。
・十字架にかかり復活されたイースターの出来事を共に喜び祝った私たちです。キリストが救いのためにどれほど苦しんでくださったか、どれほど私たちを愛してくださっているか、そしてどれほど私たちのために心砕いてくださっているかを知らされているのではないでしょうか。
・あのキリストの十字架の死と復活に思いを向ける時「勇気を出せ」の一言が、今も力強く響き渡るのです。目の前のことの落胆や失望を覚えるようなことがあろうとも、希望の源であるキリストの叱咤激励があなたに勇気をもたらすのです。
・新しい一週間の歩みが主のみ言葉によって与えられた勇気と共に始められていきますように。
私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。 |
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今週の聖句
神はイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださいました。
ペトロの手紙一1章3節より |
教会全景

礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
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