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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
4月25日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 4月28日(日) 10時15分~
説教題: 「選ばれた者の出発」
聖書箇所  出エジプト記33章12節-17節
      使徒言行録13章1節-3節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年4月14日
「ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。」          使徒言行録12章17節より


〇「主の御心に適うこととして」
・クリスチャンは祈りの日々を送ります。そして祈りは自分の思いや願いばかりを求めるのではありません。祈りの基本は神さまの御心のままにという信仰の応答を求めるところにあります。それは、自分の思いが神さまの御心、神さまの思いと同じならば達成させてくださるようにという求めです。
・ペトロは天使によって自分が牢から助け出されたことをはっきと認識します。そこで向かったのがマルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家でした。
・ここではペトロ救出のために熱い祈りがささげられていました。12.5にもあったようにペトロが牢に捕らえられていることを知っている教会の共通の祈りの課題はペトロが守られるようにということだったからです。
・そして、彼らの祈りが主の御心に適い、すぐに聞き入れられ、助け出されたペトロが訪問してきたにもかかわらず、彼らの慌てふためく姿が目に浮かぶような描写が本日の箇所でなされています。
・それは彼らの真剣な祈りを理由にペトロが助け出されたというよりも、ここで主なる神さまのペトロを牢に繋がれたままにしては置かれないという思いと人々が祈り求める思いが同じであったということです。
・それでも熱心に祈っていた人々からすれば、自分たちの祈りが主に聞き入れられたと喜び、感謝する場面だと言えます。
・しかし、現実をにわかには信じることができません。ロデという女中が対応しますが、ペトロの声に驚き門を開けることを忘れてしまいます。おそらくこの門は玄関を出て庭の先にある門でしょう。
・というのもこの家は大きい家であったと考えられるからです。なぜなら人々が集まっている場所だからです。当時建物としての教会はなく、信徒の家を開放して共に祈り、礼拝をしていたのです。
・しかも大勢の人が集まって祈っていたとあることを考えると、それ相応の大きさの家だったことが分かります。そう考えるとペトロは門の外で待たされたまま放置されていることにもなります。待ち望んでいた客であるにもかかわらず、正反対ともいえる態度で対応してしまっているのです。
・それだけ驚きの出来事でした。それもそのはずで、彼らがペトロのことを祈っていることを思うと、彼らの中ではペトロは今、牢に繋がれているはずなので、ここに来ることは考えられません。ペトロが牢に捕らわれているからこそ祈っているのに、その祈りの最中に解放されて訪問するなど思ってもみません。
・ここに想像以上の良い結果が示されてもそのまま受け止めきれない私たちの現実を見ることもできるのではないでしょうか。自分の思いが退けられるならばまだしも、思い以上の素晴らしい結果が与えられても、神の思いと人の思いが違うものであることが示されるのです。
・ロデの喜びの知らせに家で祈っていた人々は「あなたは気が変になっているのだ」と言い出す始末です。
・それでも本当だと言い張るロデに対して「それはペトロを守る天使だろう」と言い出すのです。これは当時信仰者一人一人に守護天使がいて、時として本人の姿で現れることがあると信じられていたからのようです。つまり本人のはずがないと決めつけているのです。
・それでもペトロが戸を叩き続けます。実際にここにいるのだということが強調されます。
・当然人々は驚きます。声を上げたり、抱き付いたり、喜び合ったりと様々な反応を見せそうなものです。それだけ大きな喜びに満ちた驚きの場面です。しかし、ここでペトロは一切の反応を手で制します。
・自分が助け出され、再会を喜んでもよさそうなものですが、ペトロは自分に主が行なってくださった出来事を説明することに終始します。
・もしかすると追手がくることを想定して、再会を喜ぶより、主の御業を伝えることを優先したのかもしれません。そしてヤコブと兄弟たちにも伝えるように言います。
・このヤコブはイエスさまの弟子であったヤコブではなく、イエスさまの兄弟のヤコブです。このヤコブは復活されたイエスさまに出会い救い主を信じる者とされ、エルサレム教会の中心人物として働きました。
・だからこそペトロはエルサレム教会に自分の身に起こったことを伝えるためにヤコブとその兄弟に伝えることを求めたのでしょう。主の御心が行なわれたことを伝えるためです。

〇「御心のために用いられる」
・そして、ペトロは、そこを出てほかの所へ行ったとあります。これは追手から身を隠すためであったと思われますが、これだけ劇的なことを経験したにもかかわらず、多くが語られることがないのです。
・しかもペトロに関してはこのあと15章のエルサレム教会の会議で名前が出てくるだけで、その後の消息は不明です。言い伝えではローマで殉教したと伝えられていますが、聖書では何も触れられていません。
・ここに使徒言行録のみならず聖書がどのような性格の書物かが明らかにされます。それは、人の身に起こったことよりも、神がなされたことを語り伝える書物だということです。
・これほどの劇的な出来事を経験したペトロがどれだけの働きを成し遂げたかに言及することはないのです。いやペトロに限らず、十二使徒のうち二人を除いて個人個人の生涯の終わりまで聖書は語ることはありません。
・その一人は12.2に記されていたヨハネの兄弟ヤコブで、十二使徒最初の殉教者です。もう一人はイスカリオテのユダです。彼の死についてはマタイ27章、使徒1章にそれぞれ違った形で触れられています。
・しかし、この二人以外の使徒たちの死について聖書は何も語りません。言い伝えでは十二使徒のほとんどが殉教の死を迎えたと伝えます。しかしそれは人の興味を掻き立てるものではありますが、聖書的ではないのです。
・聖書は使徒たちがどのように主に捉えられたかについては明確に語りますし、彼らによって福音が伝えられたことを記します。しかし、彼らの生涯がどうであったかについては触れないのです。ここに聖書の性格がはっきりと表れています。
・主のための働き人の人生よりも、何のための働き人だったのかということです。聖書は主を宣べ伝えるのです。福音が伝えられることを語るのです。それは主の御心がどのようなものであるかをはっきりと示すのです。
・だからこそ、ペトロが劇的な経験をしながらも、この後、表舞台から姿を消すというのも偶然ではないのです。ペトロと教会の祈りが主の御心と認められて、救いの出来事が起こった、それで良いのです。
・ただこの物語はこれで終わりではありません。牢の番をしていた兵士たちとヘロデ王の末路に触れられています。番兵に関しては仕事中に起こった出来事で巻き込まれたとしか言えないかもしれません。
・しかしそのペトロを捕らえる側にいたことは事実ですし、当時の慣習法として囚人を逃がした場合は囚人が受けるはずの刑罰を受けることになっていたということです。
・更にヘロデ王の死について20節から語られますが、ティルスとシドンに腹を立てていたとあります。おそらくヘロデ王は食料提供を理由に支配下に置こうとしていたのに、それができずにいて腹を立てて、食料の輸出に制限をかけていたような状況があったと考えられます。外交問題と領土問題はいつの時代にも国を挙げての問題となりかねないものです。
・侍従ブラストはヘロデ王に意見できるほど信頼されていて、寛大な人物だったのでしょう。間を取り持って和解ができ、その流れで演説を聞くことになります。
・ここに集まった人々がなぜヘロデ王の演説に対して「神の声だ。人間の声ではない」と口にしたのかは分かりません。けれどもヘロデ王がどのような扱いを受けていたかが分かります。
・周囲から忖度され、自分が神のように崇められることに満足しているのです。神にとって代わる自己神化です。これは何よりも傲慢な人の思い上がりです。
・「神に栄光を帰さなかったからである」と言われているのはそのためです。神の栄光よりも自分の栄光を求めているのです。その結果ヘロデの命は主によって取り去られるのです。ヨセフスという人が書いたユダヤ古代誌にも記述があるので歴史的にも確認できる出来事だと言えます。
・さらに蛆に食い荒らされる死というのは、想像するだけで気持ち悪いと思われるのですが、教会迫害者の典型的な死の姿として描かれるもののようです。
・ヨセフスの記述には「ヘロデは心臓にさすような痛みを覚え、それが全身に広がり、締め付けるような痛みが胃を襲った」とあり、「五日間にわたる腹部の痛みに消耗しきった王はついに五四年間に及ぶ生涯と七年間の治世を終えた」とあります。
・主の天使がヘロデを打ち倒したとは、主によって病を与えられたヘロデが死に至ったとみて差し支えないと思います。
・ペトロとヘロデの身に起こったことを見比べると、主の御心に適う者が助け出され、適わない者は裁きによって命が奪われるとみえるのですが、殉教したヤコブの姿があったことも忘れることはできません。
・私たちの感覚で助けられとか見捨てられたとか考えると混乱してしまいます。理解できません。それでもここで私たちが見るべきは、神さまの御心が私たちの只中で行なわれているということです。

〇「御心に適う者かそうでないか」
・いずれにしても、御心に適わない者の姿から滅びを恐れ、強迫観念の中で従うことを求めるのが本意ではありません。確かに滅びの裁きを恐れることは大切ですし、それがなければ救いを求めることもないでしょう。
・それでも信仰者は救いの希望に目を向けるのです。危険な場所に橋が架かっていて、落ちたら危ないから慎重にと声をかけるか、大丈夫だから安心して行けばいいと声をかけるのでは全く違います。
・実際には橋がぐらついたり、頼りないものだったりすると不安を覚えて足がすくんでしまうということもあります。子どもの頃は平気だった高い所が大人になって怖さを覚えるになった経験を持つ者としては、子どものころは危険を知らないから怖さを感じなかったのではないかと思います。
・危険の事実を知ってしまうとしり込みするのです。恐怖を覚えるのです。それは何事においても同じです。そしてそのような事柄を遠ざけることを願うのです。
・しかし遠ざけることができないことも必ずあります。そのような場合には十分な準備をもって向き合うことに努めると思います。
・もし私たちが人生において様々な危険があることを知っているならば、確かな助けや備えが必要なことに気づかされるのです。しかもそれが神さまとの関係であるならば、自分ではどうにも対応できないことを知らされます。
・神さまとの関係から離れ、御心に適わない者への滅びの裁きは底知れぬ恐怖を与えます。どうあっても乗り越えることができないからです。誰一人としてこれで大丈夫と安心できる人間はいません。
・けれどもイエスさまによって与えられる信仰の道は、神さまとの関係を確かにされます。イエスさまは決して壊れることのない橋として私たちを神さまのもとへと導く一筋の道となってくださいます。
・主の御心に適う者なのかどうでないのかはイエスさまに従うかどうかにかかっています。マルコ17.5では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われています。私たちはそのままでは決して神さまの御心に適う者となり得ません。
・救い主イエス・キリストの御声に聞き従う時に初めて私たちは神の御国に向かう道を歩み始めることができるのです。
・地上のあらゆる事柄に増して、私たちに不可欠なのこと救いの確信です。地上の命を生きながらにして神の国の住人として生きる恵みが与えられる信仰の道です。
・神の御国である天国への希望が確かにされる信仰の道は、地上の命の後に始まるものではありません。地上において信仰者として歩み始める時、私たちは今すでに天国の住人として生き始めているのです。
・神の御心に適う唯一のイエス・キリストの救いの御言葉、福音に聞き従うことは、何よりも神の御心に適う最上の道なのです。













私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
   コリントの信徒への手紙二
          5章17節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)