神様からのメッセージ・聖書のみ言葉は、礼拝生活の中で私たちに働きかけてきます。礼拝は、前奏から始まり後奏に至るまで、そして日々の生活へ送り出され、次週の礼拝に至るまで続いていきます。特に教会での礼拝は、全てのプログラムに神様を拝する意味が込められています。共に教会に集い、み言葉を聴き、主を讃美することができることを祈っております。
しかし都合によって、礼拝に出席できなかった方々のために、礼拝での聖書朗読と説教を準備いたしました。マイクをクリックすると音声が流れます。しかし準備ができない場合もあります。また高齢や疾病など様々な理由で礼拝に出席できない方々には、在宅聖餐も含めて訪問をいたします。ご連絡をお待ちしております。
8月31日 説教 (マイクから聴くことができます)
「このようにして、全員が無事に上陸した。」 使徒言行録27章44節より
使徒言行録27章27節ー44節
○「具体的な対応」
・「皆さんのうちだれ一人として命を失う者はいないのです」と22節で断言していたパウロでした。この断言が神さまの言葉からのものであることが24節で確認されました。このように断言するパウロには天使によって語られた言葉が与えられる以前に、主なる神さまにより頼む基本的な姿があります。
・特に船が操縦できないほどの嵐に見舞われている中で、どのような対応をするかに表れてくる基本姿勢です。具体的に何をするかを思いめぐらすよりも、主に信頼し続けるパウロの姿です。
・それでも現実には、どれだけ気を付けていたとしても、私たちの人生には思いがけない災難や災害に見舞われることがあります。そのような時に備える防災への意識が、ここ数年で更に高まってきているように感じています。それは災害時の持ち物はもちろんですが、避難訓練などでの状況に応じた備えについても言えることです。
・緊急時には自分では冷静でいるつもりでも、通常時では考えることがないような、見当違いの言動をしてしまうこともあるからです。冷静に考えれば十分に助かることができるような場合でも、危険を冒してしまい、命が危ぶまれるようなことにもなりかねません
・船や飛行機の乗組員は緊急時には、サービス要員ではなく、乗客の命を守るために緊急対応要員となって、毅然とした態度で対応すると聞いたことがありますし、乗客も彼らに委ねることで少しでも助かる道を進むことができます。
・そう考えると、パウロたちが乗っていた船も操縦できない状態だったので、明らかに緊急事態です。船の乗組員が緊急対策をするのです。実際ここに至るまでに積み荷を捨てるなどして対応してきましたが、意味をなしていません。
・それでも船員たちは、十四日目の夜にアドリア海で陸地が近いことを感じ取りました。このパウロの船旅をなぞってヨットで旅をした人の検証では、クレタ島南西のカウダからマルタ島まではほぼ十四日間かかったとのことなので、この記述は確かなものだといえます。
・けれども、ここでの船員たちは極めて無責任です。彼らは自分たちだけで助かろうと、小舟で逃げ出そうとしたのです。それに気づいたパウロが百人隊長と兵士たちに、船員たちが逃げないようにする指示を出しました。
・ここで小舟を切り離してしまったのは、後のことを考えると良い策だったとは思えませんが、覚悟を決めるという意味では良かったといえるかもしれませんし、好意的に見るなら、パウロの「誰一人として命を失うものはない」との言葉への信頼を堅くする役割を担ったかもしれません。
○「具体的な備え」
・そのような中で、パウロは食事を勧めます。遭難している十四日間という期間に、心配や不安、人によっては船酔いもあったことでしょう。21節にもあったように、人々はろくに食事をとることができずにいたのです。何よりもこの後上陸するためには、体力が必要だと思われたのです。
・34節で「だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」と言われているとおりです。生き延びるためにとは、陸地に上がるためであることは間違いありません。
・さらに髪の毛一本もなくなることはありませんとは、格言的な表現で、神さまによる確かな守りがあることを示しています。
・23節の言葉と合わせて、神さまによる守りがあることをすべての同乗者にむけて、はっきりと語り示しているのです。緊急事態にあっても、パウロは一貫して主に従っているのです。そして非日常の危機的状況にあっても、日常生活と変わらず、主の御言葉に従っているパウロなのです。
・食事という行為自体が日常生活にあるべきものです。加えてパウロは、35節に、「一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」とあるように、日常の食事の仕方で食べ始めています。
・感謝の祈りによって、パンを裂いて食べるといわれると聖餐をイメージしそうなのですが、この船には信仰者はパウロと数名の者だけですから、聖餐に直結するとは考えにくいと思います。それでも、主なる神さまの祝福の中で、食事を共にしていることは間違いないでしょう。
・パウロの感謝の祈りに導かれて「一同も元気づいて食事をした」とあるように、パウロの姿が人々を励まし、食事が始められていきました。特に海の男といわれると、勝手なイメージでしかありませんが、荒々しいイメージがあります。特に久しぶりの食事となると、われ先にと食べ始めそうなものですが、パウロの祈りに導かれた落ち着いた食事であったことが想像できます。
・そして、乗船者が食べて、それぞれに力を回復したところで、残りの食料を海に投げ捨てて、少しでも船を軽くして座礁を避けるために船を軽くしました。この時点で満潮か干潮かは分かりませんが、潮位の変化によって座礁してしまうことも十分に考えられますので、万全の準備をしているといっても良いのではないでしょうか
○「難破」
・暗い夜に浅瀬を進むのは大変危険なので、朝を待って、陸に上がることができる場所を探し始めます。このような操縦は船員にしかできません。31節の言葉によって船員たちを留めたことが、ここで活きてきます。
・兵士たちと囚人たちだけでは、到底進むことができなかったはずです。しかし、この入り江の地形は複雑だったようで、船員をもってしても座礁してしまいました。それだけではなく、激しい波で船が壊れ始めてしまいます。
・ここでパウロをはじめ囚人たちに、新たな命の危機が訪れます。兵士たちが囚人を逃げ出す前に殺そうとし始めたのです。これは職務上、囚人の逃亡は兵士の責任となるので、当然の対応だといえます。
・しかし、百人隊長はパウロを助けたいとの思いから、兵士たちを思いとどまらせます。百人隊長は31節、32節でもパウロの指示に従って、船員たちを船に留まらせるために動きました。
・ここにはローマ皇帝の所まで連れて行かなければならない、との責任感があったと思いますが、船の遭難が始まって以来、パウロが指導的立場に立った言動をしています。百人隊長はこれに異を唱える事はなく、それどころか、指示通りに動いているようにさえ見えます。
・それは、命の危険にさらされてなお、うろたえることなく神に信頼し、神の御心をすべての判断材料としているパウロの一貫した姿に、感銘を受け、尊敬の念すら抱いているような状況ではないかと思われるのです。それだけ、パウロはこの船で大胆さと一貫性をもった言動に終始しているのです。
・「そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。」と続きます。
・食事をして体力を回復していたことが功を奏しているというべきでしょう。結果、パウロが言ったとおり、誰一人として命を失う者はいませんでした。そして、26節に「必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」とあったように、この時点では名前の分からない島に上陸することができました。
・船の遭難と難破という死と隣り合わせの状況を経験してなお、全員生き延びることができたのです。もしこの出来事を報道するとなると、全員が助かった地中海の奇跡などと銘打って、大体的に報道されるのではないかと思います。
・けれども、パウロからすると、助かることは当たり前でした。奇跡という意味では、神さまの御業が行なわれたという意味で当てはまりますが、生き残ったという意味では、神さまのご計画通りになされたからです。
・私たちの人生の中で、災害や災難に見舞われることはないとはいえません。むしろ信仰者として社会の中で過ごしたり、教会としての歩みを進めたりすることで、様々なことを経験させられることがあります。
・それが自然のものであったり、人為的なものであったり、理由や状況はいくらでも考えられます。特にこの国での生活においては特有の原因が考えられるものです。しかし、私たちはパウロがなぜこの状況下で、主の御心を祈り求め、従い続けることができたかに思いを向けたいのです。
・パウロはすべてを神の意思として受け止めながら、この旅を進めているのです。目の前に繰り広げられる暴力、暴論の数々、自然の嵐による命の危険、そのような出来事を目の当たりにし、当事者として責め立てられた時に、倒れ伏してしまいそうになります。
・しかし、パウロには大きな具体的な目的が示されていました。23.11「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」」との主なる神さまからのご命令です。
・この出来事が達成されるためには、どのようなことがあっても守られると信じ、主の御心のままに進んでいるのです。自分に与えられている働きに懸命に仕えているのです。すべての立ち振る舞いも含めていえることです。
・パウロに感化されている人々は、パウロの個人的な特徴に憧れたり、好感を覚えたりしているように見えて、実は、パウロをそのように用いてくださる、主なる神さまのみ言葉との出会いによって変えられているのです。パウロのすべての言動は主の御言葉に根差したものだからです。
・主なる神は苦難の時をも用いてくださいます。それは主を信じる者を苦しめるためではなく、苦難の時を経てなお、主御自身が共にいてくださることを示してくださるためです。場合によっては、成長が与えられる訓練の時として用いられることもあるでしょう。
・少なくともこの船に同乗していた人々は、パウロの姿を通して主なる神を信頼する強さと平安の中に立ち続けている姿を見ることができたはずです。
・残念ながら、ローマでの具体的な伝道の実りには触れられていませんが、好意的に受け入れられたことは間違いありませんし、少なくとも敵対心をもって向かってくるような者はいなかったはずです。
・この船を見舞った嵐は、一時の苦難と死の恐れを人々に与えましたが、そこにおけるパウロを通して、主なる神さまは救いのみ言葉を語り、示されたのです。
・ローマへの道が確約され、何があったとしても、それを乗り越えて目的地に導かれるパウロの旅路を読み進める私たちは、救いのみ言葉を知らされた者として、地上という大海原を教会という船に乗船し、共に航海しているのです。
・この船の目的地は救いの完成である、天の御国です。ここに至るまでの道のりがいかなるものであったとしても、必ず主は道を整えてくださいます。
・この確信と共に、それぞれの歩みが祝福に満ちたものとなりますように。苦難も喜びも主の備えたもう恵みとして感謝しつつ、共に歩み始めるのです。