神様からのメッセージ・聖書のみ言葉は、礼拝生活の中で私たちに働きかけてきます。礼拝は、前奏から始まり後奏に至るまで、そして日々の生活へ送り出され、次週の礼拝に至るまで続いていきます。特に教会での礼拝は、全てのプログラムに神様を拝する意味が込められています。共に教会に集い、み言葉を聴き、主を讃美することができることを祈っております。
しかし都合によって、礼拝に出席できなかった方々のために、礼拝での聖書朗読と説教を準備いたしました。スピーカーをクリックすると音声が流れます。しかし準備ができない場合もあります。また高齢や疾病、様々な障害のために礼拝に出席できない方々には、在宅聖餐も含めて訪問をいたします。ご連絡をお待ちしております。
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1月18日10時15分〜
主日礼拝説教
イザヤ書53章6節ー10節
ペトロの手紙一2章22節ー25節
「キリストの傷による癒し」


1月18日 説教 (スピカーから聴くことができます クリックして下さい)
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」
ペトロの手紙一2章25節より
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○「身代わりとなってくださったキリスト」
・本日の冒頭の言葉はイザヤ書53.9からの引用です。私たち人間の罪の身代わりとして十字架にかかってくださったイエスさまのお姿を指し示しています。それは22節の言葉に当てはまる存在に思いを巡らせると分かります。
・私たち人間の中に全く罪を犯したことのない人や、偽りを語ったことがない人間はいません。これは必ずしも犯罪行為や嘘だけを指して言っているのではなく、神さまとの関係で聞くべき言葉です。
・私たちは誰一人として、いついかなる時も神さまの教えに聞き従い、行なうことができる者はいませんし、どのような時も神さまを賛美し、人を愛する言葉を語ることができる者もいません。
・神さまとの関係で罪のない人とは、いつでも神さまの御心を行い、偽りがないとは、神さまを賛美し、人に対して真実な言葉を語ることです。しかしそのような歩みをすることができない自分であることに気付かされるところから、キリスト教信仰の歩みは始まります。
・自分ではどうすることもできない罪を持っていること、イエスさまによってしかこの罪から贖われないこと、だからこそイエスさまを救い主と信じる信仰によって、新しく生きることを心から求めるのです。
・そして行ないにも言葉にも偽りなく、真実な方であるイエスさまだからこそ、神さまに対する罪の唯一の犠牲となりえるまことの聖さを持っているといえるのです。どうあっても純粋さの欠片もない人間は自らの罪を償うことはできません。
・子どもの失敗を親が肩代わりすることがあると思います。親子関係に限らず誰かの過失を肩代わりすることもあり得ることです。
・それは多くの場合、賠償責任や、賠償能力の有無にかかってくるものです。関係性や財産の有無にかかっているということです。
・イエスさまが私たちの身代わりになってくださることに思いを向けると、関係性で言うならば、責任を持ついわれはありません。むしろイエスさまを十字架につけろと叫んだような人間が相手です。
・しかもイザヤ書53.6にもあるように勝手に道を外れて好き勝手な方向に進み始めたような者が相手です。そのような相手を見捨てたとしても責められることはないでしょう。しかし、このような人間が救われるために、イエスさまのほかに誰も役に立つことはできません。
・イエスさまには一点の罪もないからです。神さまのご計画のままに歩むことができる唯一のお方です。それは十字架に向かう道においてもです。それが神さまのご計画である以上、不従順を示す理由はないのです。
・たとえ痛みや苦しみを伴うとしても、命が奪われることであったとしても神さまのご計画に従うお方だからこそ、唯一の救い主となってくださったのです。そうでなければ、私たち人間の贖いとはなり得ませんでした。
・賠償責任や能力ということでいうならば、神さまとの関係、神さまのご計画の中で生きることができるかどうかが問われるのです。そうなるとやはりイエスさま以外に、神さまに対する罪を贖うことができる存在はあり得ません。
・23節の言葉には忍耐の姿がありますが、これもまた道徳的な忍耐ではなく、神さまのご計画に服従する姿の表れです。自らをいけにえとすることを自覚的に受け入れてくださっているのです。
・イエスさまは神さまと私たちの間を取り持つ仲保者として、ただ沈黙のうちに、そしてなされるがままに十字架にかかってくださいました。そして人の手に任せるのではなく、正しくお裁きになる方である神さまにご自分のことをすべてお任せしているのです。
・ここに徹底してご自分を神さまの救いのご計画のためにささげてくださった、イエスさまのお姿を確認することができます。自ら進んで神の裁きを引き受けてくださる姿です。これは信仰者の揺らぐことのない希望の源です。
○「羊のようにさまよっていた私たち」
・それは25節にあるように「羊のようにさまよって」いた私たちだからです。羊は聖書で最も多く登場する動物ですが、それは、当時の社会でよく知られた最も身近な家畜だったため、その性質もよく知られていたので、たとえとして用いられたのです。
・その性質としてよく知られているのは目が悪いということです。羊は羊飼いがいないと、道を見失ってしまうのです。先が見えない状況や迷子になっている状況を指しているといえると思いますが、もっと悲惨な状況を指して、羊のようにさまよっているというのです。
・こども園でも羊飼いと羊の話は毎年しています。そのときには弱い羊が羊飼いの導きの中で生きることができることを確認しています。さらにここでは、さまよっている姿に目を向けることが大切だと思います。
・つまり、目が悪い羊がさまよっていることが、なにも見えずにどうすることもできない状態に置かれているということです。神さまを見失っている状況がいかに絶望的な状況なのかを指し示します。
・そもそも罪という言葉が繰り返されるキリスト教の礼拝ですが、罪がどのようなことから始まっているかについても、繰り返し確認すべきかもしれません。時々お話することもありますし、信仰生活が長い方にとっては当たり前のようなことかもしれませんが、罪の語源は的外れです。
・弓道やダーツの的を想像してください。狙うべき場所、見るべき場所が的として定められています。けれどもその的から外れてしまうことが罪の原意です。神さまを見ること、神さまの思いから離れることが的外れなことであり、神さまに対する罪だと言っているのです。
・神さまを見失っている状況を羊がさまよう姿として語られ、そこから救われなければならない状況に陥っている現実を明らかにしているのです。しかもイザヤ書からは自ら道を外れて、好き勝手な方向に進み始めた姿が記されていたことを考えると、神さまに逆らい、自己中心的な思いの中で罪を犯している姿を思わざるを得ません。
・このことから、羊飼いを見失った羊はただたださまようしかない、つまり自分の力で羊飼いを探し出すことなどできない姿が示されます。私たち人間が自力で神さまを見出し、神さまのもとに到達することなどできないのです。
・しかし、神さまを見失った羊であったとしても、神さまは羊飼いとして見つめていてくださいます。どれだけ逆らった道を進もうとも、決して見失うことなく、そのまなざしを向けていてくださるのです。
・そしてそのまま好き勝手に進んでいくままに放っておくことをなさらずに、捕えて、共に歩むためにイエスさまを遣わしてくださいました。マタイ18章とルカ15章に記されている見失った羊を探す羊飼いのたとえ話を思い出してください。
・百匹のうちの一匹がいなくなった時に、九十九匹を残したまま、いなくなった一匹が見つかるまで、決して諦めることなく探す羊飼いの姿です。いなくなった羊は何もすることはできません。ただ羊飼いが探し出してくれるのを待つのみです。
・神さまという的を見失っている私たちも同じです。もしかすると迷子になっていることすら気づいていないかもしれません。それでも、神さまはイエスさまを遣わしてくださり、私たちに立ち帰る道を示してくださるのです。
・25節で今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。と言われていることに注目すると、牧者として導き、監督者として見守ってくださる方の元に戻ることが許されていることが分かります。
・戻ってきたという以上、本来あるべき場所が神さまの元であることがここに示されます。好き勝手に生きるのではなく、神さまのご支配の中でこそ、本当に生きることができるということです。
・最近では自分らしさということが頻繁に言われます。ひどい仕方で人に束縛されたり、支配されたりすることは当然禁じられる必要がありますが、自分らしさを盾に好き勝手に生きることを肯定することはあってはなりません。
・そもそも自分らしさが何を基準に考えられているのかという土台や共通理解がないと、自分らしさが一人歩きしたり、揺らいだりしてしまいます。時と場合によって変わってしまうこともあるでしょう。
・変わるという意味では、成長や生活環境での変化は当然あり得るものですが、聖書は決して変わらない自分らしさをはっきりと示します。それは神さまのご支配の中に生きることです。
・支配と聞くとどうしても縛り付けられる感覚を持つかもしれませんが、良い支配の中では、そこに生きる人々が生き生きとしていることは十分に理解できるのではないでしょうか。
・神さまのご支配は決して私たちを縛り付けるためのものではありません。そうではなく、地上において私たちを縛り付ける様々なものから自由にしてくださるためのものです。それは地上のものに頼るのではなく、神さまにこそ頼って生きる信仰を与えてくださるものだからです。
・これこそ、神さまとの関係を回復されて、生きる新しい命であり、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためと24節言われていることの現実です。私たちはもはやさまよう羊としてではなく、確かに見るべき方を見つめることができる者と変えられて、神さまと共に生きることが許されているのです。
○「傷による癒し」
・それがキリストの十字架によって与えられる救いの恵みです。神さまを見失い絶望の中を生きていた私が、キリストの光に照らし出されて、キリストの者とされて生きるようにされるのです。十字架で受けられたキリストの傷が、私の癒しとして与えられているのです。
・しかし、私たちの感覚からすると、人が傷ついたり苦しんだりしている時に、どれだけ代わってあげたいと思っても、代わってあげることはできません。その人が受ける苦しみを引き受けたいと願っても、決してかないません。
・親しく愛すべき相手ならば、そのような思いを持つこともありますが、全く関係がなかったり、情報としてのみ知っているだけのような相手だったりするとそこまでの思いを持つこともないのではないでしょうか。
・けれどもキリストの十字架の傷は、私を、あなたをいやす力を持つのです。それは単純に病のいやしや悩みの解消を意味するのではありません。信仰者でも病気で苦しみます、様々なことで思い悩みます。
・しかし、それでも自分の存在の全てが神さまの救いの御手にあることを知らされているのです。つまり存在としていやされているのです。繰り返しにはなりますが、地上のものに頼るのではなく、天におられる神さまに頼ることができる新しい命を生き始めるのです。
・私たちの誰もが新しい出会いによって自分が変えられる経験を持っていると思います。そして良い出会いによって良い影響を受け、良い変化がもたらされるのは間違いありません。
・新約聖書の時代、特に初代教会の時代の人々は、キリストとの出会いによって大きく変えられました。それまでとは全く違う姿をもって、キリストと共に生き始める信仰者であることを証ししました。
・いや聖書の登場人物のみならず、キリスト教会の歴史がそのような人々の変化の歴史だといえます。キリストと出会い信仰者とされた者は、神さまの義に生き、キリストの傷によって癒されます。
・それは神さまと共に生きる道を歩み始め、神さまのみ言葉に従って生きる者と変えられる信仰の恵みです。キリストの十字架の苦しみと傷はそれだけの力を持って働いてくださいます。
・今を生きる私たちに対しても、その力を失うことはありません。もしキリストに少しでも欠けがあるならば、こう断言することもかないません。
・しかし私たちは十字架にかかられた方が、何一つ罪のない方であることを知らされています。そして、十字架への道が神さまの救いのご計画であるがために、何一つ不平不満を漏らすことなく、自らの思いの実現を完全に退け、苦しみ、死なれたイエスさまでした。
・神さまに完全に従いきるお姿を示されたこのお方だからこそ、全く欠けや汚れのない唯一の犠牲として、私たちの身代わりになってくださいました。そしてこの傷によって癒しが与えられる信仰者なのです。
・特にこの手紙の読者が信仰的な迫害や困難を覚える状況にあったことを思う時に、キリストの傷によるいやしの確信が、彼らにとってどれほど励ましになったことか分かりません。
・今、目の前のことで自分たちは傷ついている、もしかすると世間の圧力の中で、教会の中でも信仰的に揺らいでいる者が出てきているかもしれない、そんな状況に確かな希望を指し示す、まことのいやしが語られているのです。
・私たちの教会においても他人事ではありません。地上の教会や信仰者がいつ困難に直面させられるか分かりません。けれども、たとえ困難と向き合わなければならなくなったとしても、私たちは十字架のキリストの傷を見つめながら、希望を失いません。
・たとえ一人では危うい状況でも、信仰の交わりである教会に生きるのが信仰者です。互いに祈り合い、励まし合いながら、共に主の御言葉に聞き続ける交わりの中で生きることが許されています。
・何よりも教会のかしらとしてイエスさまがいてくださいます。まことの羊飼いであるイエスさまの導きに従う信仰者の群れとして共に歩んでいくことができれば幸いです。
・そして、羊は目が悪いと言いましたが、一方で聞き分ける耳を持っていることをイエスさまのたとえ話によって知らされている私たちです。自分の羊飼い以外の人の声には反応しないそうです。自分を生かしてくれる羊飼いの言葉を明確に聞き分けるのです。
・私たちもまた、良い羊飼いであるイエスさまが語る言葉をしっかりと聞き分けながら、聞く耳を持つ者とされて、救いの道を共に歩む一週間となりますように。