神様からのメッセージ・聖書のみ言葉は、礼拝生活の中で私たちに働きかけてきます。礼拝は、前奏から始まり後奏に至るまで、そして日々の生活へ送り出され、次週の礼拝に至るまで続いていきます。特に教会での礼拝は、全てのプログラムに神様を拝する意味が込められています。共に教会に集い、み言葉を聴き、主を讃美することができることを祈っております。
しかし都合によって、礼拝に出席できなかった方々のために、礼拝での聖書朗読と説教を準備いたしました。マイクをクリックすると音声が流れます。しかし準備ができない場合もあります。また高齢や疾病など様々な理由で礼拝に出席できない方々には、在宅聖餐も含めて訪問をいたします。ご連絡をお待ちしております。
10月19日 説教 (マイクから聴くことができます)
「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」
ペトロの手紙 一1章8節より
ペトロの手紙 一1章5節ー9節「見なくても愛し、信じる喜び」
○「終末への希望からの未来への希望」
・キリスト教信仰の希望は、キリストが再び来てくださる時に向けての希望となります。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」と5節にあります。
・これこそ、4節で「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」と言われていた財産の内容です。終わりの時とは一人一人の地上の死ではありません。これを履き違えてしまっては全く意味が違ってきてしまいます。
・私たちは地上の死をすべての終わりとは考えません。むしろ天国に向かっての歩みが進められるきっかけの時です。ちなみに天国への歩みは、今この時にも始まっています。信仰者が地上で救い主を信じることは、天国の住人とされている確信の中で生き始めることだからです。
・そして、終わりの時はキリストが再び来てくださる再臨の時です。そこにおいて完成される救いを、確かな財産として約束されているのです。この救いを受けるために「神の力により、信仰によって守られています」と言われています。
・まだ見ぬ終末の時であるにもかかわらず、そこに至るまでの歩みが必ず守られることを明言しています。つまり私たちの未来に救いの出来事が確かにあることを示すのです。
・未来が確かなものとして示されることは、今を生きる者の力であり、励ましとなることは言うまでもありません。今この時に頑張ってもそれが報いられないと思うと、現在の歩みが空しくなってしまいます。この空しさは、私たちの生きる力を奪い去ってしまうこともあります。
・希望が見いだせない所では、生きる意味や目的を見失ってしまうからです。一方で未来の希望が確かに示されているのは、本当に幸いなことで、それぞれの人生の中でも希望によって励まされた経験があるのではないでしょうか。
・多くの人が経験することで考えれば、受験や結果が求められる仕事などがそうではないでしょうか。その先にある結果によって素晴らしい生活や報酬が約束されていると思うと、目の前の勉強や準備に積極的に励むことができるものです。
・このような姿をペトロの手紙は「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」といいます。「心から」つまり、全存在から喜ぶのです。それだけ、神さまが備えてくださっている財産である救いはかけがえのない良いものであり、わたしたちを喜びで満たしてくれるのです。
・そして地上における信仰者の歩みは、この確かな希望と喜びを土台にしているものであり、神を見あげ、感謝する生活を求めるのです。
・そして、今を生きる信仰者は終末という未来への希望をもって、愛をあらわしながら地上の生活を送る者とされるのです。信仰者の地上の歩みは、その一人一人に確かに向けられている神の祝福の恵みにみたされているものだからです
○「地上の苦難、信仰の苦難」
・それでも、地上の信仰の歩みが無条件に守られているとは言えない現実があるのは、今も昔も変わらないようです。ペトロの手紙の読者であったディアスポラの人々が生きる初代教会は、たてられているそれぞれの地で様々な迫害を受けていました。
・そして今を生きる私たちも、教会がキリストの教会としてたつための、迫害や障害、苦難を覚えることがいくつもあります。現実に経験したことの一つとして、感染症によって一つ所に集まることが難しい外的な困難を経験させられました。
・また、信仰的にも主を信じる信仰にたつことを求めながらも、様々な異なる信仰によって、脅かされるような状況があることを否定できません。そのような中で漠然とした宗教に対する不安や警戒感を覚えるような社会となっている現実があります。
・直接的な迫害はなくとも、間接的に距離をとろうとする現実の中で、どのように伝道するか、という問題に直面しながら過ごしているのが私たちの現実でしょう。
・しかもそれは、教会の外のことだけにとどまりません。教会内でも起こっている出来事です。私たちの教会の現状を見ても分かるように、家庭内伝道の課題があることは明白です。
・けれども、このような現実がキリストを信じる信仰の喜びをしぼますことはありません。むしろ試練の時によって精錬される信仰であることが希望として語られています。
・「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」との6節7節の言葉は、教会に生きる信仰者である私たちを確かに励まします。
・試練と思われるような時においても、信仰から離れることなく聖書の御言葉を中心にして生きることが、何よりもの伝道の働きとして用いられます。一番の家庭内伝道は、礼拝を中心にする生活をいかに示すことができるかにかかっています。
・これは決して見せつけようとするものでもありません。信仰者としての生き方、生き様としてあらわれてくるものです。普段の生活の中で礼拝を、そして神さまをどこに位置づけて過ごしているかです。
・あらゆる苦難や障害を覚えることがあったとしても、そこで真実な信仰の歩みを求めていくときに、必ず信仰の成長が与えられます。この成長による神さまの守りが確かにされていきます。
・そしてこの成長による守りが、終わりの時に備えられている救いを受けるためのものであるからこそ、心から喜ぶことができる時であると、聖書は語るのです。
○「主の愛によって主を愛することができる」
・これは、信仰者であるあなたがどれだけ神さまを愛する信仰者として生きているか、が問われているともいえます。神さまの御言葉に聞く礼拝を中心とした生活は、神さまを愛する生活だからです。
・私たちにはイエス・キリストを通して神さまの救いが示されました。クリスマス、イースターは神さまの救いのご計画の表れです。ここに神の愛があります。
・けれども私たちは誰一人として、直接この出来事を見た者はいません。それでも「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と8節で語られています。
・こういった言葉に触れる時、二人の弟子の姿を思い起こします。一人はイエスさまの一番弟子であるペトロです。ヨハネ21.15‐17「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
・すでに十字架の裁判を前に主イエスを知らないと言ってしまっていたペトロでした。そのペトロに復活された主イエスは三度にわたって「わたしを愛しているか」と問いかけるのです。
・ここでペトロは、三度にわたってイエスさまのことを知らないと言ってしまった自分の姿を思い起こしていた事でしょう。だからこそ悲しくなったのではないでしょうか。
・自分の拭いようがない罪の現実に、悲しみを覚えるのは容易に想像できます。また、それを理由に主イエスが愛していることを受け入れてくださらないと悲しくなったのかもしれません。
・けれどもそれで終わりではありません。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と続きます。
・ここに主イエスの十字架が、主イエスを知らないと言ってしまった自分の為であったことに気付かされているペトロの姿を見ます。イエスさまあなたを愛することは、私の感覚からではなく、あなたが十字架によって私を救ってくださったからできることです。との応答として聞くことができるからです。自分の思いすらも、「あなたはよく知っておられます」とイエスさまの判断に任せるペトロです。
・わたしたちは信仰の事柄を私たちの感覚でとらえることは気を付けなければならないことを、知っていますが、どうしても自分の感覚から離れることはできません。けれどもこのペトロとイエスさまのやり取りに触れる時、自分が愛することですら、イエスさまの愛に触れなければ起こり得ないことであることが確認できるのです。
・そしてもう一人はトマスです。ヨハネ20.27‐29「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とあるのは、まさに自分の感覚との関りで言われていることです。
・自分が触れてみないと信じないといって聞かないトマスでした。自分だけが復活された主イエスが来られた時にいなかった、という疎外感もあったとは思いますが、それも人と比べる時に出てくる感情です。
・主イエスが語られていた事よりも、自分の感覚によって確認できないことは受け入れないのです。このトマスの姿に共感できてしまう人は多いのではないでしょうか。私もその一人です。
・けれども、それは不十分なのです。いや不十分というよりも神さまが愛してくださっているという事実を、軽んじてしまっていることになってしまいます。
・自分を愛しているなら、証拠を見せてほしい、などといったセリフは安い恋愛ドラマのようです。確かにしるしがあれば安心できるかもしれませんが、目に見える物によって得られる安心は、いつかは失われてしまうものです。
・私たちは復活のキリストを直接見たことはありません。けれどもこの方の救いの御業を信じる恵みと喜びが与えられています。8節の言葉はまことに信仰者の喜びの豊さを言い表しています。
・そして続く「それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」との言葉は、キリストの希望によって今を生きる信仰者の確かな実りが確認されます。
・この実りによって生かされていることは、見なくても信じる恵みというだけではなく、見なくても信じることができるようにしてくださる、神さまの愛が与えられている喜びを確かにしてくれます。
・愛されているがゆえに愛することができるのです。私たち人間関係の愛は一方通行では成り立ちません。しかし、神さまの愛は一方的に注がれ続けています。神さまの愛はそれだけで成り立つのです。その中に招き入れられた信仰者は、神さまの愛によって生きることが許されます。
・一方的に備えてくださっている終末への希望に導かれる現在の命です。この神の愛による未来への希望によって、見なくても信じる信仰が与えられるのです。
・将来へのビジョンが確かであればあるほど、今すべきことが明確にされることは言うまでもありません。私たちに示されている終末という未来へのビジョンはキリストによって何よりも確かなものとされています。
・救いにあずかることがゆるされる確かな約束です。このビジョンが明確にされている信仰者ですから、直接見なくても、信じる恵みの中を生きていくことができるのです。
・そして、この明確なビジョンに向かっていくために、私たちが今を生きる者としてすべきことは、主の御言葉と共に生き、礼拝を中心として地上での信仰生活を全うすることに他なりません。
・そして、救いの喜びに生きる幸いを少しでも伝える者として仕えていくのです。その働きの中で金、銀が精錬されるように、私たち自身が終末の時に、主の御前に相応しい信仰を持つ者として変えられる、確かな恵みを受けるのです。