神様からのメッセージ・聖書のみ言葉は、礼拝生活の中で私たちに働きかけてきます。礼拝は、前奏から始まり後奏に至るまで、そして日々の生活へ送り出され、次週の礼拝に至るまで続いていきます。特に教会での礼拝は、全てのプログラムに神様を拝する意味が込められています。共に教会に集い、み言葉を聴き、主を讃美することができることを祈っております。
しかし都合によって、礼拝に出席できなかった方々のために、礼拝での聖書朗読と説教を準備いたしました。スピーカーをクリックすると音声が流れます。しかし準備ができない場合もあります。また高齢や疾病、様々な障害のために礼拝に出席できない方々には、在宅聖餐も含めて訪問をいたします。ご連絡をお待ちしております。
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12月7日 説教 (スピカーから聴くことができます クリックして下さい)
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」
ペトロの手紙 一2章2節より
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ペトロの手紙 一2章1節-5節
○「乳飲み子のように求める」
・哺乳類の赤ちゃんは生まれてすぐに母乳を飲みます。それを誰かに教えられるわけでもなく、生きるための本能として母乳を口にします。特に最初の母乳は免疫などの観点から、とても大切だと聞いたことがあります。
・乳飲み子のように乳を求めることは、ただ純粋に求めることを意味します。しかも自覚がなくても、生きるために必要なことを求めているわけですから、人生において不可欠なことを求めているともいえます。
・そしてしばしば赤ちゃんからたとえて言われるのは、その純粋な姿です。当然のことながら、生まれたばかりでは何も知りません。何も知らないということは、1節に出てくるような悪徳といえる事柄も知りません。
・これらは成長するにつれて抱くようになる思いであり、現実です。しかもこのような現実からは誰も逃れることができません。正しさに生きていることを常に意識している場合でも、その正しさゆえの不平不満が出てきて悪口を言ってしまうこともあるでしょう。
・自分の方が正しいと明らかな場合には、なおのことそういった裁きの姿を露呈してしまう私たちの現実があるのです。しかし、自分が裁けるほどの正しさ、完全な正しさを持っているかといえば、決してそうではありません。
・むしろ私たちは誰一人として、人を裁くことができる正しさを持っている人間はいないことをよく知っているはずです。だからこそ、真理に満ちた真の正しさを持つキリストを信じる者とされた時には「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」と1節でいわれているのです。
・特にこの捨て去るという表現は、すぐに捨て去ることを意味しています。キリスト者と変えられたということは、古い自分を捨て去って新しい命を生き始めることだとしばしば言われます。それは悪徳ではなく、神の義、正しさによって生きる命です。
・そして、全く新しいものとされることは、徐々に変えられるよりも、即座に変わることを指しているというべきでしょう。使徒パウロの劇的な変化が代表的な姿です。それでも私たち自身のことを振り返ると、生活や言動がすぐに変えられる経験はあまりないかもしれません。
・ここで求められているのは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」との2節の言葉です。「混じりけのない霊の乳」とは、「偽りのない言葉の乳」とも訳すことができる文章です。
・偽りの言葉ではなく、真実の言葉を求めることを命じるのです。1章の終わりから続いていることを考えると、この手紙は兄弟愛による信仰者の交わりを見ています。そして悪意などはこの交わりつまり教会形成の妨げになるから、すぐに捨て去るように命じるのです。
・それだけではなく、「混じりけのない霊の乳」とある、真実の言葉を求め、これによって成長し、救われるように勧めます。乳児が乳によって成長することに例えていることを考えると、不純物がないものを与えることに繋がります。
・不純物が入り混じった食糧は、成長の妨げとなりかねません。場合によっては病の原因や成長不良といったことも引き起こすからです。信仰者の成長も同じで、純粋に神の言葉をそのままに聞くことが大切です。
・主の御言葉から逸れることのない礼拝、そして説教がいかに大切かを示される一言です。私たちの人間の言葉によるのではなく、福音を純粋に聞くことによってはじめて、信仰の成長が与えられ、救いの確かさが示されるのです。
・「乳飲み子のように」といわれる時、そこには、純粋な思いで聖書のみ言葉に耳を傾けることと、純粋で偽りのない言葉を慕い求めることが不可欠であることを知らされるのです。
・そもそも洗礼を受けて間もない信仰者は、生まれたての状態と同じです。生まれたばかりの赤ちゃんが乳で養われて成長していくように、生まれたばかりの信仰者も「混じりけのない霊の乳」によって養われていくのです。
〇「恵みを味わう」
・そのような食べ物のイメージから、「主が恵み深い方だということを味わいました」と続きます。地上の教会は同じ恵みを味わっているのです。味覚は人それぞれに違いますから、誰にとってもおいしい食べ物はありません。
・しかし、主の恵みの味わいは信仰者にとって同じ味わいをもたらします。教会が信仰の恵みとして、一つの食卓を囲んでいるといっても良いでしょう。この食卓は本日の礼拝でも用意されている聖餐です。「目に見える神のみ言葉である聖餐」といわれます。また「目に見えない神のみ言葉である説教」とも言われます。聖餐と説教は別物ではなく、共に同じ神のみ言葉を味わうものです。
・先ほど神のみ言葉によって養われる信仰者であることを確認しました。そこから「混じりけのない霊の乳」の内容が聖餐と説教であることが示されます。私たち地上の教会は、聖餐と説教をないがしろにすることはできませんし、信仰者として大切にしなければなりません。
・成長するために食べ物が必要であることは言うまでもありません。そして良い成長のためには良い食べ物があってしかるべきです。我が子の健やかな成長のために、できるだけ良い食べ物を用意しようとする親心は一般的にも理解できることではないかと思います。
・親心という意味でいえば、神さまは私たちのためにもっともよい食べ物を用意してくださっているのです。最上の食卓を用意してくださっています。救いのみ言葉、福音という唯一無二の神さまの恵みです。
・このことを知らされる時、アドベントの歩みをしている私たちは、クリスマスの出来事の喜びをより深く覚えることができます。あなたを救うために、地上にお生まれになったイエスさまのお姿を改めて知らされるからです。
・そしてこの救いの喜びは、教会に共通して与えられている恵みです。だからこそ、同じ味わいを知っている信仰者の交わりとしての教会だと言うのです。聖餐は神の国での食卓を指し示す特別な食卓でもあります。
・味、味覚ということで考えると、食事には前味、中味、後味があるそうです。中味は食事の味そのもの、後味も食べた後の味覚の感覚で分かると思います。そして前味というのは、食べる前の香りとか、食べる状況などを指すそうです。
・確かに同じものでも誰と食べるか、どこで食べるかで、全く味わいが変わってきます。食事そのものを味わう前から、私たちは味わうことを始めているといっても良いでしょう。これは地上の教会のみ言葉との関りにも通じるものです。特に聖餐は神さまが備えてくださる食卓にあずかる恵みを示し、地上に生きる信仰者に神の国の交わりを先取りして示してくれるのです。
・神さまのみ言葉によって養われることを真剣に求める者にとって、この食卓がいかに大切なものかが分かります。私たちの教会が聖餐式を執り行う礼拝を大切にしているのもそのためです。この食卓を失っては、信仰の養いを受けることがかなわなくなってしまうのです。そういった意味で、コロナ禍での聖餐執行の危機は、教会の命の危機でした。
・聖餐と説教によってのみ、地上の教会はキリストの体なる教会として立つことができますし、信仰の養いを確かに与えることができるのです。もちろん聖霊のお働きによって与えられる成長があることは間違いありません。さらに信仰者の交わりとしての教会の営みに思いを向ける時、聖餐と説教が不可欠なのです。
〇「生きた石として」
・そしてこの手紙は、信仰者に「この主のもとに来なさい」と命じます。福音が主キリストから与えられるからです。聖餐も説教もキリストの福音なしでは意味がないのです。
・人間的な感覚ではキリストの存在は取るに足らないものであったかもしれません。「人々から見捨てられた」とあるように、十字架にかけられた姿は価値なきものとしてキリストを見捨てた人間の姿に他なりません。
・道端に落ちているような石ころのような扱いです。特に気にも留めない学校の帰り道でけられているような何の変哲もない石ころです。見捨てられたとあるくらいですから、特段の意識もなく蹴られている石ころではありません。
・見捨てるということは、吟味したうえで拒否することです。十字架の出来事とそこに至る経緯を思い起こしてみると、まさにイエスさまを見捨てる人間の姿が示されてきます。
・自分たちには必要ないと判断したのです。一度は手にとって、それでも価値がないと結論付けているのです。
・しかし、人々から見捨てられたキリストが、「神にとっては尊い、生きた石なのです」と続けられます。人の目には価値なきものと映ったとしても、神は何よりも尊いものとされているのです。これはわが子が一番という、親子の感情とは違います。神さまの目的がどこにあるのかにかかってきます。
・神さまの目的は人間の救いです。この救いが成し遂げられるためにあらゆることを用意してくださっているのです。そのためのもっとも尊い、生きた石であるイエス様なのです。これは石ころとは違い、建材とするならば、最高級の石材というべき表現です。神さまはそれだけの特別な思いをもって、私たちの救いを実現することを一番の目的としておられるのです。
・そして生きた石とは、有益な存在を指します。何のために有益なのか。それは、霊的な家を作り上げるためです。この具体的な引用は6節以下に記されていますので、次回確認したいと思いますが、霊的な家を作り上げるために用いられる良い石となることが求められているのです。
・霊的な家とは教会です。キリストの体なる教会を立てるために健全な信仰を持つ信仰者となることを勧めます。そして教会の中心にあるのは、まことの神礼拝です。神を礼拝することは旧約聖書の神殿から続けられてきています。
・その経験から「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」と語るのです。これは聖なる者として生きる献身を意味します。1.15にも「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」とありました。
・キリストに出会った信仰者の群れである教会は、この聖なる者の群れです。そして聖なる者として生きる具体的な生活は、礼拝を中心とした生活です。礼拝が聖餐と説教を中心としていることが示されましたので、聖餐と説教という神のみ言葉を中心とした生活が聖なる者としての生活であることが分かります。
・この信仰の応答の生活は、旧約聖書の民から受け継がれているものだと言えるでしょう。神さまが御言葉を語り示し、それが実現していくことを経験として与えられているからです。彼らもまた神の救いを実体験として味わっている人々です。
・私たちにはそれに加えて、目の前の守りや助けられる出来事のみならず、神の国への確信、救いの確かな希望をキリストによって与えられています。
・キリストの福音を味わった私たちは、その恵みの豊かさと味わいの深さを喜びとして受け止めることが許されているのです。私たちは決して消えることのない恵みを味わい続ける道を歩むことができます。
・私たち地上の教会の歩みもまた、確かな神さまの守りの中に置かれていることを感謝しつつ、神への信頼の中を歩むことができれば幸いです。
・そして、それほどまでに私たちを常に愛し導いて下さる、神さまの救いの御業を知らされるために、イエスさまは地上にお生まれになりました。この喜びと感謝をもってアドベントの歩みを進めていきましょう。