神様からのメッセージ・聖書のみ言葉は、礼拝生活の中で私たちに働きかけてきます。礼拝は、前奏から始まり後奏に至るまで、そして日々の生活へ送り出され、次週の礼拝に至るまで続いていきます。特に教会での礼拝は、全てのプログラムに神様を拝する意味が込められています。共に教会に集い、み言葉を聴き、主を讃美することができることを祈っております。
しかし都合によって、礼拝に出席できなかった方々のために、礼拝での聖書朗読と説教を準備いたしました。スピーカーをクリックすると音声が流れます。しかし準備ができない場合もあります。また高齢や疾病、様々な障害のために礼拝に出席できない方々には、在宅聖餐も含めて訪問をいたします。ご連絡をお待ちしております。
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3月8日10時15分〜
主日礼拝説教
箴言 11章23節ー31節
ペトロの手紙一 4章12節ー19節
「神の霊がとどまってくださる」


3月8日 説教 (スピカーから聴くことができます クリックして下さい)
「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」
ペトロの手紙一4章14節より
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○「試練と受け入れがたいほどの厳しい試練」
・愛する人たちに向けて語り始める本日の箇所です。ペトロの手紙はローマ帝国の迫害下にある教会と信仰の友に向けて書かれています。彼らを愛する人として呼びかけるのは十分に理解できることです。
・しかし、愛する人に投げかける言葉を考える時、多くの場合に優しさや思いやりに満ちた言葉を思い浮かべるのではないでしょうか。少なくとも相手を傷つけるような言葉を好き好んで語ることはありません。
・それでも、厳しい状況におかれている愛する人を前に何を語ることができるのか、何を語るべきなのかが問われる場面に出くわすこともあります。私たちの人生には厳しい苦難が起こることがあるからです。
・東日本大震災を覚える一週間を始めようとしている私たちは、自然災害が苦難として立ちはだかることがあることを想い起さずにはおれません。皆さんも様々な形でかかわりを持った方と出会う機会があったのではないでしょうか。
・私も親しくしている牧師が東北で仕えていた時だったので、問安に行く機会がありました。彼の周囲には大きな被害はなかったのですが、周辺の教会を手伝うことに疲弊している様子でした。
・そんな中で、震災後のいくつかの町を案内してくれました。言葉を失うとはこのことかと痛感しました。被害の大きさに何も言うことができませんでした。阪神淡路大震災の時にも、震災後の片付けに行く機会がありましたが、全く別の印象を持ちました。それが具体的にどう違うかというべきか分かりません。自分の関わったわずかな範囲の印象でしかありませんが、東日本大震災の方が、より強く自然の脅威を感じました。
・特に津波襲来後に一つの大きな建物以外は何もなくなってしまっている町を訪れた時には、津波以前の町の状況を聞かされても、信じることができないほどでした。そしてそのような場所で仕えている友人にかける言葉もなかなか見つけられませんでした。
・私にできることは、できる限り普段通り接することと、祈りを合わせることでした。実はその友人は自分が仕えている教会と地域の被害が少なかったこともあり、外からの訪問者の対応をしていました。
・そして多くのキリスト教団体が来て、ボランティアとして働いたり、救援物資を持ってきてくれたりしてくれたけれど、一番嬉しかったのは、改革長老教会協議会の問安で一緒に祈ってくれたことだったと聞かされました。
・やはりキリスト教会の交わりには、祈ることが不可欠だと思わされました。色々な出来事を経験させられて、気づかされた信仰の交わりの恵みです。震災などで受けた痛みや苦しみ、悲しみの深さは本人以外には分かりません。
・それほど深い苦しみの出来事です。決して試練という一言では片づけることなどできない厳しいものだと理解します。それでも時間を経て、あの時を通して与えられたことがある、と受け止めることができるようにされることもあります。
・皆さんも人生の中でそのような時間があったと振り返る出来事があるのではないでしょうか。その時には到底受け入れられないようなことだったけれども、今振り返ればあの出来事があったからこそ今があると、思えるような出来事が。
・「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」と12節にあるのは、簡単な一言ではありません。
・「火のような試練」と言われると二つの意味合いを想い起します。一つは、とてつもなく厳しい試練です。到底試練とは受け入れることができない大変な出来事、つまり、単純なトラブルではなく想定をはるかに超えるような、想像を絶する厳しい出来事です。
・火のような試練とは破壊的な力を持つ火になぞらえられるほどの、大きな苦難が試練として与えられることを思い起こさせるものです。
・同時に旧約聖書以来、火は金属を精錬する役割から訓練を示す言葉として用いられてきました。ゼカリヤ13.9には「この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。」とあります。
・試練によって鍛えられた信仰者は、主なる神さまとの関係に生きる者とされます。目の前の試練が大きかったとしても、主が試練として与えられているならば、その先に備えられている恵みがあることを希望として受け取るのです。
・ペトロの手紙の背景には当時のローマ帝国における社会的な迫害がありました。皇帝崇拝ではなく、神礼拝を続ける信仰者は明らかに社会の秩序を乱す存在と受け止められたのです。
・しかし、そのような迫害が起こっても、不意に起こった理不尽な扱いとして驚き怪しむのではなく、キリストの苦しみにあずかることとして喜ぶように勧めています。これは地上に生きる私たち人間の感覚からすれば、全く持って受け入れ難いとしかいいようのない驚くべきすすめです。誰もが進んで苦しみ、それを喜ぼうなどとは思わないからです。
○「キリスト者として」
・そこで「人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」と15節で確認されます。これらの苦しみは自らの過ちの結果生じる苦しみです。
・いわゆる犯罪行為といっても良いものですが、「他人に干渉する者」とは、おせっかいとも訳せる言葉です。必要以上に他人に干渉して混乱を生じさせたり、困らせたりする姿で、本来であれば、無関係のはずの場所に不当に首を突っ込み意見を述べたり、判断に介入したりすることです。
・いつの時代にもそういった人々がいるのだなと思わされます。これは無責任といわれても仕方ない人です。場合によっては偽証の罪に問われるかもしれませんし、直接的な影響はなくとも、真実を変えてしまう結果を引き起こしてしまうような不誠実な姿を持っているのです。
・キリスト者として生きるならば、神との関係はもちろん、他人との関係においても誠実さが求められるのです。むしろそのような誠実な生活を送る中で、異教の地でキリストを証しすることに繋がるのです。
・何よりも神さまに対して誠実に生きようとするならば、おのずと人に対しても誠実な者として生きることになります。先ほどの箴言の言葉を見ると、神に従う人と神に逆らう人に示される結果が対照的に語られます。
・そして神に従う人が地上のものに縛られず、隣人との関係で施しなど思いやりをもって過ごし、祝福された歩みをすることが示されます。一方で神に逆らい地上のものにとらわれる者は厳しい状況におかれ、人々からは呪われた者とされ、神さまに裁かれる姿が確認できます。
・そしてこの裁きは「神の家」から始まることが17節で確認できます。神の家とは信仰共同体であり、私たち教会を指しているといってよいでしょう。キリスト者と呼ばれる者に対する裁きから始まるというのです。
・16節の「キリスト者の名で呼ばれる」ことは迫害を受けていることを示しています。というのも、キリスト者という呼称は迫害者が侮辱的な呼び方として用い始めたものだからです。その名前で呼ぶことで侮辱し、嘲り、馬鹿にするような呼び方です。けれどもそのように呼ばれる時にこそ、「神をあがめなさい」というのです。
・キリスト者と呼ばれることが、侮辱的なことだと分かっていても、それに対抗するのではなく、神をあがめることで対応するのです。侮辱されている状況ですら、神をあがめる時として用いる姿を通して、キリストを証しする時となることを求めるのです。そうすることで、必死に神さまに対する信仰をもって生きる道を進むことが許されます。
・18節に「正しい人がやっと救われるのなら」とあります。この「やっと」という言葉に注目してみたいと思います。地上に生きる信仰者は、漫然と過ごして救いにあずかるのではありません。救われた者だからこそ、必死の思いで神に応答し、歩み続ける。それが「やっと」という言葉に込められた重みです。これは行為義認ではなく、主権者なる神の選びに対する、全存在をかけた応答なのです。
・ペトロの手紙は、キリストの救いにあずかったものだからこそ、必死に、やっとの思いで神さまに対する応答の生活をすることによってはじめて救われるというのです。救われた者として、懸命になすべきことを行いながら神さまの選びに応える者として生きていくのです。自分がしたいことをするのではなく、神さまの思いがどこにあるのかを、祈りつつ仕えていくのです。
・さらにキリスト者がやっとのことで救われるならば、「不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と18節にあるのは、先ほどの箴言の11.31のギリシア語訳からの引用です。キリスト者であっても救われる相応しさを十分に持っていないことを考えると、神に逆らうような人々に対する裁きの大きさがどれだけのものになるか、と案じるような言葉です。
・それでも敵対者にむけて神さまの裁きが訪れることを求めているわけでもありません。自分たちキリスト者の状況を確認する中で、神さまに逆らう人々のような状況にあることがいかに悲惨であるかに思いを向けさせるのです。
・つまり神さまの救いから離れては、立ち行かなくなってしまう私たちであることがここに示されるのです。それは救いの大きさ、素晴らしさが改めて示されることに他なりません。
・そこから、再び神さまと共に生きる恵みと希望を確認するのが19節「神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」との一言です。
・この善い行いも単なる善行ではありません。神さまの御心に適った生活です。神さまの御言葉によって押し出される具体的な生活です。まず主の御言葉に聞く礼拝から始め、そこから隣人との関係に生きるのです。
・そしてここで「創造主」と言われています。主なる神さまがすべてを創り、支配しておられる方であることが強調されています。私たちの地上の生活は、この創造主なる神さまにすべてを委ねることから始めるのです。
○「神の霊がとどまってくださる」
・そこで確認したいのが神の霊、聖霊の存在です。14節に「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」とありました。
・キリストの名のために非難される、つまりキリストのために生きている所には、神の霊がとどまってくださるというのです。この神の霊がいてくださるからこそ、私たち地上に生きる信仰者は、神さまの御心の中で生きることができるのです。
・やっとのことで救われる、必死になるといったことを先ほど確認しましたが、それが自分の努力による行為義認ではないといいました。そうではなく、神さまの御心を祈り求めつつ、それに応える歩みであることは、私たちの信仰生活の基本中の基本です。
・そしてそのような信仰の歩みを確かにしてくださるのが、聖霊なる神さまのお働きです。たとえ人々から非難されようとも、そこが神さまの御名があがめられる場として用いられるために、神の霊が働いてくださるのです。
・これが苦難をも喜ぶことができるキリスト者の根底にある希望です。自分自身の努力や能力に頼るのでも、地上の何かに頼るのでもなく、神の霊に頼ることではじめて、神さまの御心によって生きることが許されるのです。
・これは神さまに従おうとしない人々や信仰を持たない人にとっては、空しい絵空事のように捉えられることかもしれません。しかし、キリスト者には、聖霊の働きを確かに信じる信仰が与えられています。そしてこの聖霊のお働きの中で、地上のあらゆる苦難の時においても、希望を失うことなく神さまの御心をたずね求める応答の歩みへと導かれていくのです。
・地上の大きな苦難は私たちの無力さを突き付けます。これは様々な形で明らかにされる現実があります。冒頭でお話した地震などの自然災害もそうでしょうし、社会的な混乱、特に戦争などはむなしさを覚えるばかりです。
・そこに神さまに対する罪の現実を思う時に、なおのこと私たちは、神さまの御前に全く相応しくない者であることに向き合わざるを得ません。それでもふさわしくない私のために、イエスさまは十字架に向かってくださいました。
・あなたが救われるために決して諦めることなく、神さまの御心に従う歩みを全うしてくださるイエスさまがいてくださるのです。神さまを信じない人からすると、これ以上ないおせっかいだと映るかもしれません。
・おせっかいとは、自己中心的なものです。しかしイエスさまには、決して自己中心的な思いでの言動はありません。すべて神さまの救いのご計画の中で歩まれるお方です。
・そして神さまのご計画は人の思いや求めに関係なく、一方的に与えられる恵みです。たとえおせっかいと映ったとしても、必ず良いものとして与えられるものなのです。よいものというよりも、これがなければどうしようもないというべき、特別な恵みです。
・神さまが私たちを造られた創造主であることを知らされるならば、神さまと共に生きることがいかに幸いなことか、ここから離れてしまうことの悲惨さに気づかされるのです。
・そのような悲惨さから救い出してくださるイエスさまの十字架の死と復活です。特に今レントの時を過ごす私たちはこの恵みへの感謝を一層強くするのです。
・そしてイエスさまが地上を離れた後に遣わしてくださる、神の霊である聖霊によって、今を生きる私たちにも神さまのみ言葉が語り示され、神さまの御心を明らかにしてくださるのです。
・たとえ私たちが苦難の中に置かれようとも、必ず導き手である聖霊がいてくださることを忘れてはなりません。またキリストと一つにされているキリスト者です。いついかなる時もキリストが共にいてくださることに希望を持ち続けることが許されています。
・キリスト者とされたあなたの上に神の霊がとどまってくださり、祝福をもって守り導いてくださいますように。