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新型感染症関連
感染症予防対策継続して、以下のとおりに集会を開催いたします。ご理解頂きますようお願いいたします。。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~
(5月28日は家族礼拝のため、10時15分~です)

〇バイブルカフェ
6月15日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 6月4 日(日) 10時15分~
説教題: 「賜物を活かし」
聖書箇所 出エジプト記6章28節-7章7節
     ペトロの手紙一4章10節-11節
説教者:  阿部 啓 牧師

         2023年5月28日
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
                使徒言行録2章38節より


○「悔い改め」
・ペンテコステは聖霊降臨日とも言われ、神さまの霊である聖霊が注がれて、神さまのことが多くの人々に伝えられ、様々な場所に教会かが建てられていくことのきっかけになる出来事で、教会の誕生日とも言われます。
・使徒言行録の2章の1節からこの出来事が書かれていますが、印象的なのは「炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった」という3節の表現ではないでしょうか。
・舌というのは私たちが言葉を発するのに必要な器官です。これが炎のような形で使徒たちに上に与えられました。そして、この出来事を経験した使徒たちがイエスさまのことをたくさんの人々に伝えて始めます。
・36節でペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語ります。
・50日前に私たちはイースターつまり、イエス・キリストの御復活を覚える礼拝を献げました。そこでは当時の人々の多くが十字架につけろと叫び、判決が下された十字架刑がありました。
・だから、「あなた方が十字架につけて殺したイエス」と言われているのです。そんなこと言われると自分は関係ないと言いたくなってしまいそうです。だってみんなが言ってたし、自分はそこまで強く思っていたわけでもなかったんだ、などと思ってしまうのではないでしょうか。
・けれどもエルサレムにいた人々によってイエスさまが十字架刑に処せられたのは事実です。そして、ここに登場するエルサレムの人々は思いがけない姿を示します。
・37節「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った」というのです。
・彼らは素直に自分たちの行なった一連の言動を認めているのです。そして、どうしたらよいのかと問い始めています。想像を超える応答がここに起きていると言えるでしょう。
・そもそも、ここで「大いに心を打たれ」という言葉は「強く心を刺され」ることを意味します。心を揺り動かされるという意味では、最近よく耳にする「あの歌詞のフレーズが刺さった」とか、「あの言葉が刺さった」とか言われる表現と似ていると言えるかもしれません。
・しかし、ここで「心を刺された」彼らは、心が痛みを覚えるくらい刺し貫かれているのです。これも日本語の表現であります。良くないことをしでかした時や人の苦難などを見聞きした時に、胸が痛いということがあります。
・エルサレムの人々は主イエスを十字架につけて殺したことを指摘され、自分たちのあやまちだと気づかされた時、心が刺されて痛みを覚えたのです。
・主イエスを十字架につけたことを、主イエスを殺してしまったことに気付かされて、後悔し反省しているのです。だからこそ「どうしたら良いのですか」との質問しているのです。
・それは使徒たちがどうすればよいかを知っていると思ったからでしょうし、自分たちの過ちをはっきりと理解したからでしょう。それだけ、心からの反省が見て取れるのです。

〇「洗礼を受け、罪を赦していただく」
・使徒たちは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と教えます。
・「悔い改めなさい」といわれると、反省することが求められているように思われるかもしれませんが、これは、悪いことをしたのだからのだから反省して謝りなさい。といったこととはだいぶ違います。
・単に自分のしたことを認めて、反省の態度を見えるようにするだけではありません。この悔い改めとは心を変える、それまでとは違う自分で生き始めるということです。
・神さまとは全く違うところで神さまと無関係に生きてきた自分が、神さまと共に新しく生き始めることが悔い改めるということなのです。そしてそれは洗礼を受けることをすすめます。
・洗礼を受けてしっかりと神さまの方へと向きを変えて歩み始めるのです。神さまの方を見て生きることは聖書の御言葉を聞き、礼拝を中心にして生きることです。しかもイエス・キリストの名によってと言われています。
・イエスさまを救い主として信じて洗礼を受けて、神さまと共に生きる者とされるのです。洗礼を受けた人のことをクリスチャンとかキリスト者と言います。
・キリスト者とはもう少し分解すると、キリストのものということです。ここでの「もの」とは二つの意味を持っていると思います。一つは、キリストを信じる者ということです。学者とか忍者に使われる者という漢字を思い出していただければよいと思います。
・もう一つは、キリストのもの、キリストの持ち物といった意味です。つまり、キリスト者はキリストのものとされているということです。自分の持ち物は自分で責任を持つものです。
・それは好き勝手して良いということではなく、それに対して責任を持つのです。場合によってはきれいにしたり、直したり、大切なものとして丁寧に扱ったりするものです。
・キリストのものとされたキリスト者は、キリストが責任をもって共に歩んでくださる新しい命に導かれていくのです。何よりも神から遠く離れていた私たちがキリストと固く結び付けられて、神に近い所で生きる者とされる恵みが与えられるのです。
・キリストと一つとされて生きる証しとして洗礼が備えられているのです。洗礼はただ一回で人生のすべてに共にいてくださる神の約束を確かにしてくださる特別なものです。
・しかも私たちの魂という見えない部分にまで働きかけて下さり、共にいてくださるということを意味することを考えると、地上のどんな約束よりも厳粛で重要なものであるかが分かると思います。
・洗礼は、見える部分だけではなく、その人の人生そのもの、存在の奥深くにまで関わる重大な出来事なのです。それは、神さまに背を向けていた人が、神さまの方に向き直させていただくだけではなく、神さまと共に生きる道が与えられるという驚きの出来事だからです。

〇「賜物としての聖霊」
・そしてここで言われる賜物としての聖霊とは、聖霊そのものが私たちの内に与えられることです。しかも無償で与えられるものです。教会の中ではよく「賜物を用いて」といわれます。
・それは神さまから与えられたものを活かして、教会に仕えるという意味で言われます。それはさまざまな奉仕を含んで言われることです。
・けれども、ここで言われている賜物は元々の単語自体が違っていて、よく見ると気づくと思いますが、「賜物としての聖霊」です。先ほど言った教会に仕える意味での賜物は「聖霊の賜物」といわれるものです。これは全く違う意味があることに気付きます。
・賜物としての聖霊は、39節でも断言されているように誰に対しても与えられるものです。誰かに特別な形で示されるようなものではなく、すべての者に向けられている神さまからの賜物です。
・賜物とはギフトです。神さまからの贈り物です。このような言い方は先ほどの聖霊の賜物のように個別に違う形で示されるような能力を指して言われることがあります。
・特別な才能であったり、能力であったり、人より秀でている部分、人より得意なことに対して神さまからの贈り物だと言われることがあるということです。
・けれどもそういったことではなく、誰に対しても必ず与えられる賜物としての聖霊がいてくださるのです。それは、誰に対してもキリストの名によって聖霊が与えられるということです。
・もっと言えば、洗礼によって聖霊が私たちの内に住んでくださり、慰め主として、導き手として、神と共に生きる道を歩んでくださるのです。
・これがどれだけ恵みに満ちたことなのか、計り知ることはできません。ただただ神からの恵みによらなければ、決して得ることのできない恵みだからです。
・もしかすると、地上に生きているならば、富が沢山与えられる方が良いとか、大きな権力を手にして自分の思い通りに生きていきたいとか考えることもあるかもしれません。
・けれどもそれらは全くもって空しいことになりかねません。ルカ12.15‐21を見ると、どれほど地上の満足を得たとしても地上の命を終える時それは何の意味も持たないことが示されます。確かに人生を謳歌するということができるかもしれませんが、それは一時の空しいものでしかありません。
・それよりも賜物としての聖霊を受けて、キリストと共に天国に向けての歩みを進めていく道へと招き入れられる時、地上の死によって空しい者とされるのではなく、永遠の命に生きる希望と祝福が確かな約束として与えられるのです。
・さらにペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めます。主イエスを十字架につけた邪悪さが背後にあると思います。しかし、地上の邪悪さはそれに限ったことではありません。
・私たちもまた、神の御業に逆らうような邪悪さを持っているものであることは間違いありません。
・私たちの社会に目を向ける時、権力や富のために引き起こされる戦争や暴力、欲望を満たすための偽りや搾取がはびこっています。そのような現実は、十字架につけろと叫んだ人々が自らの思いを優先した姿を何ら変わりありません。
・神の思いに背を向け、自己中心的な思いの実現ばかりを思い描いているかのようです。神さまから離れて自分勝手になってしまうことから、神の思いに逆らう邪悪な時代が変わらず続いているのだと言わざるを得ません。
・それでも神は決してあきらめることなく、救いの御手を差し伸べてくださいます。私たちの内に聖霊が与えられているのはそのためです。賜物としての聖霊を受ける時、私たちがキリストと一つとされて、キリストのものとされ、神の御心に適う者とされることをあきらめることは決してないからです。
・洗礼を受けた者がキリストと一つにされている者として、まことの悔い改めと主の御心に聞き従い生きることができますように。また、キリストの福音を宣べ伝えることができますように。
・どうか求道中の方々の中から、聖霊のお導きのうちに洗礼へ、共に新しい歩みへと導かれる方が呼び起こされますように。
・何よりも私たちの交わりに聖霊が豊かに働きかけてくださり、私たちの思いを神の方へと向きを変えてくださることに感謝いたします。










私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
武力によらず、権力によらず
ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書4章6節bより

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)