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新型感染症関連
感染症予防対策の上、以下のとおりに集会を開催いたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
10月20日(木)10時半~

教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 
日 時 : 10月2日(日) 10時15分~
説教題: 「惑わされない」
聖書箇所 ダニエル書11章31節-32節
     マルコによる福音書13章14節-23節
説教者:  阿部 啓 牧師

         2022年9月25日
「話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」
          マルコによる福音書13章11節より


〇「神殿崩壊についての問い」
・13章の1節、2節でイエスさまは立派な建物を建築中のエルサレム神殿に感嘆の声を上げている弟子たちに対して、神殿崩壊を予告されました。
・続く3節で、「神殿の方を向いて座っておられる」イエスさまに弟子たちは改めて「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と尋ねています。
・あれほどの建物が崩壊することをにわかには信じられないといった心境かもしれません。いや、イエスさまが言われるならば、という思いはあっても、その時としるしを知りたいのです。
・確かに大きなことが起こると言われると、それに対して備えたいと思って、時としるし、前兆が何かを知りたいというのは当然の事でしょう。
・しかもエルサレム神殿は当時の人々にとっては、誇りとすべき大切な建物でした。
・それは建物の荘厳さはもちろん、イスラエルの神を礼拝する聖なる場所であることも相まっての事でした。それだけのものが崩壊するとなると、いつどのような形で起こるかを知りたくなるのです。
・歴史を振り返ると、エルサレム神殿の崩壊は紀元70年頃に起こる出来事ですが、イエスさまは予めその時を語り示すことはなさいません。
・そもそも、弟子たちの問いにある「そのことがすべて実現するとき」とは「すべてが完成するとき」であり、それは終わりの時を意味するような表現です。
・マルコによる福音書の興味は、神殿建物がいつどのようにして壊れるかということではなく、イエスさまの救いに生きる者がどのようにふるまうべきか、私たちの世界がどのような姿をあらわすかということにあるのです。
・信仰の歩みは必ずしも心地好いことばかりではありません、喜ぶことのできる楽しみばかりでもありません。主に従って生きることによって受ける苦しみ、迫害が存在することを聖書は一貫して語り続けています。
・ここでも、偽者の出現、戦争、地震、飢饉などの様々な苦しみに触れられます。特に戦争は70年頃のエルサレム神殿破壊につながるユダヤ戦争を思い起こさせるものです。

〇「いくつかのしるし」
・戦争以外の事柄も、「産みの苦しみのはじまり」として描かれます。聖書において産みの苦しみはという表現はいくつか出てきますが、これは大きな痛みを伴う苦しみを意味します。
・けれども、痛みだけにとどまらず、先に大きな喜びが待っているのが産みの苦しみです。大きな痛みの先に誕生の喜びが先に待っているからです。
・しかし、出産は決して簡単なものではないことはよく知られていることです。自分が親になってからその思いは強くされていますが、母親も生まれてくる子どもも命がけの一大事です。
・それはどのような誕生においてもいえることです。陣痛を経験しない出産もありますが、それでも、全く安全が保障された出産などありません。それは出産に至るまでの妊娠期間を含めていえることです。
・つまり、これは私たちの命の始まりに際して誰もが経験することです。それと同じように、しるしに関わる出来事は、当時の人々に対してのみならず、今を生きる私たちに向けて語られているともいえるでしょう。
・出産は少なからず苦しみや危険が伴うのと同じように、必ず起こることとして、偽者の出現、戦争、地震、飢饉が挙げられているのです。
・人を惑わすような、イエスさまの名を名乗る者が大勢あらわれるというのは、私たちにとって身近な出来事です。ここ最近の、聖書で指摘されるているかのような偽物の存在が思い起こされてしまいます。
・「我こそが救い主だ」と言って人を惑わすのです。人を惑わすことは、道を誤らせることです。本来あるべき姿から逸らしてしまうことです。
・この偽物の出現によって惑わされた者は、キリストから遠ざけられるのみならず、その人生が大きく狂わされてしまう現実を私たちは見ています。
・主イエスは言われます。「人に惑わされないように気をつけなさい」と。真の神の言葉を知り、聞き続け、人の言葉になびかないように気を付けるのです。
・戦争についても「起こるに決まっている」と断言されるほどに、必ず起こってしまうのです。私たちの歴史を振り返る時、身近な所や遠くの地にあって、ずっと起こっていることです。
・争いがすぐ隣にあり続ける私たちの現実です。しかし、それは「まだ世の終わりではない」のです。更に地震や飢饉に触れられますが、これらはしるしかもしれないけれども、終わりの時ではない、完成の時ではないのです。
・実はこの時がいつなのかという問いは、先の32節を見る時に完全に退けられる問いだということが分かります。
・「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」とイエスさまは言われます。神のみぞ知るというと、責任放棄と思われるかもしれませんが、まさに神のみぞ知ることなのです。
・神さまに対する思いがあいまいなままでこの表現を用いるならば、それは無責任になるかもしれませんが、神がどのような方であるかを知っていて、神のみぞ知るというならば、それは、神さまにお任せするという確かな言葉になります。
・私たちが思い悩んだところで、神の御計画によって定められているならば、それは必ずその時に起こるのです。どれだけ考えて、努力したとしても、神の時でなければ達成されないこともあるのです。
・従って終末の時が来たと触れ回るような者は、キリストに敵対するものでしかありません。私たち教会は終末の時に向けて確かな備えをもって生きることを聖書から聞くのです。
・主の再臨の時に、慌てふためくことなく、きちんと向き合えることができるように準備しておくのです。イエスさまはそのために必要な御言葉を私たちに向けて語り続けていてくださるのです。
・神の摂理という言い方がありますが、この摂理信仰の根底には、神への信仰があります。神が必要な道を備えてくださるという信仰です。主の備えを信じて祈り求める歩みです。
・戦争や災害などを理由に世の終わりの時だと叫ぶような人の声に惑わされることなく、どのような状況にあっても、主の御声に耳を傾けることから離れないのです。
・地上のあらゆる見えることよりも、神さまが示されることに集中していくことが何よりも大切なことです。

〇「迫害の現実の中で」
・9節からは迫害の現実の中での在り方に触れられます。キリストの証言者としての在り方です。しかも、敵対者ともいえるローマの総督や王の前で証しすることが求められます。
・これは明らかにイエス・キリストが地上から離れた後の弟子たちに向けた言葉としてみることができるでしょう。けれども、キリスト信じるすべての者が主の弟子としてこの働きに遣わされているのです。
・特に「証し」ということは、殉教ということにつながる言葉です。キリストを宣べ伝えるために命が奪われることです。これは単純に命がけで主を宣べ伝えること、殉教の死を遂げることを美化しているわけではないでしょう。
・確かに主イエスと共に歩んだ弟子たち、大きな迫害下にある信仰者は文字通り命がけで信仰を証ししました。いや、今の時代にも地域によっては同じことが言える現実もあります。もしかすると、私たちも同じような状況に置かれるかもしれません。
・ただ命がけということは、色々な視点で聞くことができます。猛烈な迫害下では殉教の死を覚悟した働きがあるでしょう。
・では、平和な時代、場所では、証しの生活は必要ないかと言えば、決してそうではありません。それぞれの人生を通して証しする歩みがあります。
・迫害下において敵対者の前に立たされて、命がけでキリストを証ししたのとまったく同じということは難しいですが、人生を賭けて主と共に生きることを証しする信仰者としての生き様もまた、命がけだと言えます。
・ここでの「引き渡される」という言葉に注目すると、イエスさまの十字架への道が思い起こされます。
・「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。」(14.10-11)
・また「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(14.41-42)という言葉があります。
・イエスさまは自ら望んで十字架の苦しみに進まれたわけではありません。14章の36節はゲツセマネの祈りと知られ、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と短いながらも切実な祈りをなされています。
・自分の願いではなく、神の御心に適うことが行われるようにとの祈りです。
・つまり、神のために生きる私たちなのです。けれども私たちの間ではしばしば勘違いしており、当たり前のように思われていることがあります。
・それは、自分ために働いてくれるのが神だということです。それは自分にとって都合のよいことをしてくれたり、準備してくれたりする存在です。
・しかし、それだと、自分の思いがかなわないとすぐに捨て去ってしまうのです。自分が神を捨てる、また神を受け入れるという自分が中心でしかないのです。人の支配下に置かれている存在が神であるならば、人が神の上に立っていることになってしまいます。
・人の支配下にあるものがなぜ神となりえましょうか。それは、人の手によって作られた便利な道具のようなものです。楽に移動するための車であったり、食べ物を温める電子レンジであったり、人の必要を満たすような道具の一つでしかありません。
・そうではなく、キリストに出会った信仰者は、自分を神のためのものとして生きるのです。自分のための神ではなく、神のための自分として生きるのです。
・信仰者はイエス・キリストに倣って生きます。イエスさまの地上での姿が信仰者の模範です。そう考えると、あのゲツセマネの祈りは私たちの祈りの基本です。
・自分の思いのたけを語るのではなく、主によって与えられた言葉を証言するのです。迫害下において、また主を証しすることが求められた時において、また自らが気付かずともそれを見ている者に対して、神にのみ頼る歩みを示すのです。
・それを通して、福音があらゆる民に宣べ伝えられるために信仰者が主の弟子として、キリストの器として用いられていくのです。

〇「聖霊によって語る」
・そして、このために遣わされる聖霊がいてくださるのです。聖霊によってキリストが語ってくださるのです。これは驚くべきことです。
・私たち人間が発する言葉がキリストの言葉として、福音の言葉とされていくからです。この時に祈られるべき言葉はイエスさまがなされた「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りです。
・このように講壇に立たされる時、この祈りを常に覚えます。私の思いや言葉をいくら語ったとしても神の言葉の説教とはなりません。
・語る者はもちろん、聞く者も共に聖霊の導きによって主の御言葉を聞くことができるようにとの祈りをもって説教と向き合います。
・真剣さと真摯な聖霊に対する祈りがなければ説教は成り立ちません。説教者と聴衆が思いを一つにして御言葉に聞くことができるように聖霊の助けを祈り求めていくのです。
・聖霊によって説教者が語ることができるように、聴衆が聞くことができるように真剣に祈ってください。教会が人の思いにとらわれて、人の声に惑わされて、道をそれていくことがないように。
・たとえ常識を超えるような苦しみや恐ろしい現実に晒されたり、主の名によって憎まれたりするようなことがあったとしても、教会としての信仰によって、一人一人が勇気づけられ、御言葉によって立ち続けることができるように。
・聖霊が今私たちのうちに働きかけてくださり、主なる神の福音が私たちへの救いの御言葉として語りかけてくださるように祈り求めます。
・イエスさまの弟子たちは迫害の現実にあっても、人の思いに支配されることなく、福音は確かな力をもって彼らを励まし、突き動かしました。
・それは歴史の中の教会での出来事です。私たちの中にも確かに聖霊は働いていてくださいます。どれだけ荒れ果てたとしても、痛めつけられようとも、どれだけ貧しくとも、またどれだけ満たされたとしても、主の御言葉は変わらず語り続けてくださいます。
・私たちの状況がどうであっても主の御言葉は私たちの力として、励ましとして、喜びとして、希望として、慰めとしてあらゆる形で示されるのです。
・聖霊によって話す言葉が与えられますように、キリストと共に生きる歩みが確かにされますように。そして、私たちを通してキリストが宣べ伝えられますように。
・来るべき日の希望に向かい、聖霊に導かれる信仰の群れとして共に歩みをなしていくのです。








私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
     ペトロの手紙一5章7節

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牧師 阿部 啓(あきら)