集会案内
〇祈り会
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
〇教会学校
日曜午前9時~
〇創立128周年記念礼拝
①9月8日
「教会の源」 阿部啓牧師
②9月15日
「教会の幸い、あなたの幸せ」
寺田信一牧師
(横須賀小川町教会)
礼拝後30分程度 講演会
「祈りについて」
〇バイブルカフェ
9月19日(木)10時半~
教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。
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豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!
豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。
聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。
日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。
次週礼拝
創立128周年記念礼拝②
日 時 : 9月15日(日) 10時15分~
説教題: 「教会幸い、あなたの幸せ」
聖書箇所 哀歌3章40節-57節
マタイによる福音書5章1節-3節
説教者: 寺田信一牧師(横須賀小川町教会)
2024年9月8日
「「あなたはメシア、生ける神の子です」」
使徒言行録16章16節より
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○「教会創立の出来事から続くあゆみ」
・1896年9月13日がこの教会の創立記念日です。1896年の信徒数は5人と60年略史には伝えられています。そのように始まった群れが今も続いていることに驚かされます。
・それは人が変わったとしても、教会は建ち続けているということであり、教会が語る内容は決して変わらないということでもあります。私たちの社会ではしばしば歴史は説得力を持ちます。何十年、また何百年続いていると言うだけで信頼に値すると理解されることも少なくありません。
・しかし、ただ続いているということだけが教会の力ではないことは明らかです。続いているという言い方をすればキリスト教会は少なくとも約2000年続いているのですから、大きな説得力を持つはずです。けれども、年数よりも力を持つものはその内容なのです。本日のみ言葉からそのことを確認できれば幸いです。
・聖書は長い書物ですが、聖書の一文、一語が取り上げられて、語られることがあります。いわゆる金言のように用いられたりもするのです。しかし、聖書のみ言葉を神のみ言葉として聞こうとする時、それだけでは不十分です。
・18節-19節に「つながれる」「解かれる」という言葉が出てきました。ここでのあなたは教会を指し、その内容は神の力、権能ということを語っているといえます
・平たくみれば、教会は天上の神の力を地上で持つことができると言い換えることができるかも知れません。では神の力とはどのような形で表すことができるのでしょうか。
・ここには天の国の鍵ということから、教会が罪に対する権能を持っていることが示されています。教会が裁判所のようなイメージで語られているのです。しかし、裁判所における犯罪のことを中心にして語られているわけでもありません。
・聖書が語る罪ということは神との関係の中で語られているものだからです。私たちは罪というとどうしても法的に考えます。法律に反しているか法律の範囲内かということで罪を判断するからです。
・けれども聖書が語る根本的な罪とは原罪、元々人間が持っている罪の姿なのです。それは人間関係における犯罪よりももっと根深いものだといわなければなりません。何せ神の正しさの前に問われるものですから、誰にも逃れようがないのです。
・そして、この罪は私たちのすぐ前にあるのです。けれども私たちは自分自身でなかなか分からないものでもあるのです。神の前における罪ということを考えていくと理解不能に陥ってしまうほどです。
・ただ一つはっきりしていることは、神のことを常に忘れずに生きていくことができない私たち人間の姿が、この罪の現実の一つであるということです。
・しかも神を信じるという告白をしながらも、そこから離れてしまう、日曜日は礼拝して神に近づいた気分でいても、礼拝から離れると神を忘れてしまうような姿が全くないともいえません。当然のことながらそれでは困ってしまうのです。
・この教会の歴史において幼稚園、子ども園の歴史がともにあることはご承知のことだと思います。
・教会幼稚園創設について60年略史にはこのように記されています。「明治40年(1907年)長尾牧師の着任以来創設されたものである。」「日曜学校の延長として、安直に附近の幼児を集めた程度のものらしい」つまり幼稚園は教会の延長として理解されていたのです。
・日曜学校(Sunday school)に続くWeekday schoolとして行なわれていたのです。このことからも示されるのは週日の生活から日曜日の礼拝を理解するのではなく、日曜日の礼拝から週の毎日を捉えていくのです。これが逆転してしまうのが私たちの身近にある神との関係における罪だといえるでしょう。
・そのような私たちの罪を許すために、罪の縛りから解放してくださるために主イエスの十字架の出来事は起こったのです。そして、主イエスの命という尊い対価を払ってまで、私たちを罪から買い戻してくださったのです。
・ここに神による罪からの救いがあるのです。まことに神に結ばれて、地上のしがらみから解放された自由に生きる道があるのです。しかもこの救いの出来事は神の出来事ですから、私たち人間が自由に扱うことができる代物ではありません。教会にはこの主イエスの救いを宣べ伝える権能が与えられているのです。
○「歴史を紡いできた者たち」
・そして、この教会の最初の一年に信徒として記されていた者たちは5名だと言われていました。彼らは教会創立から信徒として加わり、生涯教会に生きて支えて、召されていった力強い信徒であったようです。
・教会の歴史にはそれぞれの時代や場所で著名な人物が生まれています。けれどもそこで勘違いしてはならないのは、有能な人物が神に用いられるというわけではないことです。
・力ない者が神によって変えられ、用いられるのです。そのような神の召しが続くことで教会創立から今に至るまで教会は立ち続け、信仰者が生み出されているのです。
・何よりも教会に生きる者は自分の力や努力によって、教会の中で自分が前面に押し出されることを喜びません。教会が自分を映し出すものではないことを知っているからです。教会が映し出すのはただ一つ、父・子・聖霊なる神です。神から離れて自分に焦点が当たるなど考えられません。
・言葉は悪いかも知れませんが、教会の歴史の中で、人の名前などどうでも良いのです。確かに一人一人の働きや信仰理解は歴史的に大切なものとして覚えられるべきものは多くありますし、個人の名前の力が何らかのきっかけとして用いられることも少なくないと思います。それでも個人の名前は二次的なものでしかありません。
・最終的に教会が生ける神の栄光を現し、主イエスの福音を宣べ伝え、聖霊なる神を知らせ、一人でも多くの人々に救いの福音を知らせることができるのであれば、個人の名前など必要ないのです。
・ここに教会の内容の一端を見るのです。教会は人の信心から始まる集まりではないのです。更に言えば、人間の必要を満たすために建てられたり、自分たちが願う神をまつったりする集まりではないのです。主なる神によって建てられ、そこに人間が集められるのです。私たちがこのように集められる姿を召し出されるといいます。
・召し出されるということは主人の命によって呼び出されるということです。自分が集まりたいからと言って集まるのではないのです。王宮などで王の前に出ようと思うなら、王からの招きや呼び出しがなければ適いません。実は教会の集められるということもこれと同じなのです。
・神の招きによって神の家である教会へと招かれるのです。イエス・キリストを神の子と信じ、救い主と信じる人々の集まりが教会なのです。同じ信仰のもとに二人または三人が集まる所に主イエス・キリストも共にいてくださり、教会は建ち続けているのです。
・そして、教会が語る内容は罪の赦しなのです。主イエスによって罪が赦されている喜び、それは転じて私たちが神と深く結びつけられている喜びです。
・それでも私たちはなかなか神に委ねきることができないばかりか、時には虚しさすら覚える状況に置かれます。この教会の歴史では、豊橋大空襲がその最たる出来事でしょう。
・資料では次のように振り返られています。「昭和二十年はこの教会にとっても最悪の年で、六月は会堂が町と共に焼失、幼稚園も、一切の物的財産も、長い間の記録も凡ては風火と共に消えてしまったのである」
○「苦難があっても」
・何一つ残らなかったのですから、再建するにもゼロから、いやマイナスからのスタートだったことは想像に難くありません。物的には当然ながら、当時はかつての敵国の宗教と目の敵にされることもあったことと思います。
・人間の側からすると、神が集めてくださったのになぜこのような仕打ちをされるのか、当てが外れたと思ってしまいそうな状況です。
・先ほどの詩編の鹿の姿を思い起こしてください。水があると思って川に来たのに、干上がってしまっているのです。あるはずのものがない時に失望感は計り知れません。
・詩編の詩人の神への信仰はまさに渇ききっているような状態です。それでも「命の神」つまり「生ける神」に切実に求めます。諦めることなく呼びかけ続けるのです。
・自分の苦境を嘆き訴える詩人の言葉は、神を賛美する言葉となっていきます。これは自分の求めを満たそうとする人の思いが、神が与えてくださるものを求める思いへと変えられていることに他なりません。
・神の備えを求める姿は信仰者の基本です。自分の思いを満たすためだけならば、キリスト教会は必要ありません。教会はキリストの体と呼ばれます。それはキリストがかしらとしていてくださる交わりだからです。
・言い換えるならば、神の思いが行なわれる場所だということです。イエス・キリストは人間の誰一人なすことができない、徹底して神の御心を行なうことができる唯一のお方です。このお方がかしらとしていてくださる教会は、神の思いに満たされた場所なのです。
・このような教会の源にあるのは「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白です。この言葉を告白したペトロが偉大なのではありません。
・つまり教会の始まりは使徒ペトロにあるのではなく、ペトロに与えられた信仰の言葉にこそあるのです。私たちもまた同じようにイエス・キリストをまことの救い主として信じる信仰を与えられ、告白する群れです。
・神に対する拭い難い罪があることを否定できるものは誰一人いません。それでもそのような私たちの救いのためにイエス・キリストを地上へと遣わしてくださり、この方を救い主として信じる信仰によって教会を建ててくださった教会設立の恵みを感謝するのです。
・さらに地上の教会は天上の教会と結びついています。信仰者は天上の神のみ国の住人とされています。信仰を持って生きる私たちは、天の国の住人として神と共に生きる者とされているのです。
・教会の源として告白される救い主、イエス・キリストは今ここに共にいてくださり、共にあゆんでくださいます。
私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。 |
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今週の聖句
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 ペトロの手紙一5章7節より |
教会全景
礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
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