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新型感染症関連
感染症予防対策継続して、以下のとおりに集会を開催いたします。ご理解頂きますようお願いいたします。
〇マスクの着用。
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇常時換気をしています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
3月21日(木)10時半~




教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

レント第三主日礼拝
日 時 : 3月3日(日) 10時15分~
説教題: 「この方を信じる者は誰でも」
聖書箇所 申命記10章17節-22節
     使徒言行録10章34節-43節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年2月18日
「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
               使徒言行録10章33節より


〇「ペトロの出発」
・コルネリウスから遣わされた三人はペトロが滞在しているシモンの家に宿泊して、ペトロを連れて主人であるコルネリウスが待つカイサリアに旅立ちます。
・ペトロにはこれに先立ち、主による幻が示されていました。11節-13節にある大きな入れ物の中にあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていて、それらを屠って食べなさい。という主の命令が伴うものでした。
・この幻については28節ー29節でパウロの理解が示されます。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。」
・ペトロがユダヤ人キリスト者、そしてエルサレム教会の指導者としてどのような思いで生きていたかということと、新しく示された使命とが確認できる一言だといえるでしょう。
・これまでは同胞の民つまりユダヤ人社会の中で、キリストを宣べ伝えることを自らの働きだと理解していたのが、この幻によってその範囲が大きく広げられたのです。
・コルネリウスは外国人です。彼らとの関りは「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」とあります。
・しかし主はペトロがコルネリウスに出会う前に、彼の元を訪れる道を示されたのです。神の御言葉を伝える働きに仕えるペトロは、自分の思いではなく神の業に仕える道が神によって示され、整えられていくのです。
・しかもペトロは一人で遣わされていくわけではありませんでした。「ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った」と23節にあります。少し先の11.12には「ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、私たちはその人の家に入ったのです。」と報告されています。
・彼らはヤッファの教会の信徒でしょう。しかも中心的な働きを担っている信徒だったと考えられます。ペトロの旅の世話をするためなのか、行った先で伝道の助けをするためなのかは分かりません。
・それでもペトロはヤッファの兄弟たちと共に出かけるのです。主の御業に仕える時に一人で遣わされるのではなく、同行者が与えられているのです。
・2.1節に記されているペトロの最初の説教を振り返ると「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」とあります。
・主の御言葉を語り始めたのはペトロですが、彼の傍らには十一人が共に立っていました。この十一人は主イエスによって召し出された十一人です。十二使徒といわれる者たちが一つになって主の御言葉を語る説教の業がなされているのです。
・神の業に仕える者を決して孤独にはさせないという神の配慮がここにあるといえるでしょう。
・そして神の御業は私たち人間の手によってなされます。説教も当然説教者の口を通して語られます。しかし、そこで語られる言葉は不思議なことに神の御言葉として語られます。
・これは説教者が神と等しい存在だというのではありません。説教者である牧師を拝んでも意味はありません。
・それはペトロとコルネリスのやり取りからも示されます。25節、26節には「ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」」とあります。
・ペトロはコルネリウスに私を拝んでも意味がないと明言しているのも同じです。自分は神ではなく、あなたと同じただの人間だとはっきりと言っているからです。
・説教が神の言葉だというのは、説教者自身が神として語るのではなく、説教者に与えられた神の御言葉が説教を介して語られるということです。これほど不思議なことはありません。
・語るべき言葉が与えられることを祈り求め、聖書と向き合い説教の言葉は紡がれていきます。当然語る者の背景によって語り言語や切り口は様々です。しかし、語られる内容がキリストの福音から離れているのでは、説教ではありません。
・私たちの教会の伝統では、正規の手続きを経てたてられた説教者によって語られる説教は神の言葉であると理解します。説教者の人格ではなく、神の召命とそれに応える者と認められているかどうかが問われるのです。
・そして、ここでペトロに与えられた幻による新たな使命への応答の姿は見習うべきものでしょう。新しい所に新しい人々の元へ遣わされていくのは、即決しづらいものです。特に今の時代様々な情報が氾濫している中で、様子を伺ってしまうことがあります。
・自戒を込めて強く反省させられる部分です。しかし、教会の本質は伝道する群れです。主を知らずに過ごしている者が現れたならば、主がそこに働いてくださると信じ遣わされていくのです。

〇「コルネリウスに与えられた準備」
・このようなペトロへの備えに先立ち、コルネリウスにも主の幻による備えが示されました。30節を見ると「四日前の今ごろのことです」とあります。
・そして、コルネリウスは自分に示された幻が実現することを全く疑っていなかったようです。24節に「一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた」とあるからです。
・ペトロの到着を確認してから人々を呼び集めたのではなく、到着した時にはすでに呼び集めて待っているのです。必ず主がペトロを遣わしてくださると確信しているのです。
・更には、ペトロを通して福音が語られることを待ち望んでいる姿がここにあるというべきでしょう。しかもコルネリウスと家族、直属の部下だけならいざ知らず、親類や親しい友人を呼び集めていることは驚きです。
・ここに主の御言葉を待ち望む私たちの姿の一端があるのではないでしょうか。礼拝に向けての備えです。その時に向けて準備して集められているのです。
・それぞれの状況を考えると家のことであったり、仕事のことであったりと、用事があることも考えられます。それでも人々はこぞって集まってきているのです。いつ到着して話し出されてもいいように準備しているのです。
・礼拝が礼拝となるのは、神さまの御言葉に満たされる場だからです。主がいて下さることを信じ、感謝の祈りと賛美に満たされる時です。ここに人の声や思いが入り混じることがないようにという思いを持って礼拝に備えます。
・コルネリウスの家に集まっていた人々はそのような思いに満ちていたことでしょう。礼拝前のひと時は期待に満ちた静寂の時なのです。
・映画やコンサートの待ち時間を思い起こしてみてください。特に会場が暗転してから始まるまでの時間の期待感や高揚感は何とも言えないものがあります。
・礼拝を私たちの娯楽にそのまま当てはめることは相応しくないかもしれませんが、前奏のオルガンが始まった時に同じような期待感や高揚感をもつことができればと思います。
・そして、主よお語り下さい、説教者を用いてください。私にあなたの御言葉をお示しください。このような祈りをもって説教を聞く準備の時を過ごしてください。

〇「私たちの教会の中でも」
・つまり礼拝における神の御言葉である説教が成り立つためには、説教者はもちろんそれを聞く会衆にも求められることがあるのです。説教者と会衆の共同作業だともいえるでしょう。
・日本の初期プロテスタント教会の代表的な指導者に植村正久という牧師がいます。ある時彼は名古屋に伝道に来ました。しかし、彼の名古屋での生活は4か月ほどで終わりを迎えます。名古屋のみならず他のいくつかの地域でも彼は伝道しましたが、富士見町教会の前身となる一番町教会で仕えるまで、なかなか定住しませんでした。
・それは彼の語ることがなかなか受け入れらないで困った状況に置かれただからだそうです。いくら若い時とは言っても後の時代と語っている内容にそれほど違いなかったはずです。
・場合によっては既に洗礼を受けている人から、これまでにそんなことは聞いたことがないと拒絶されてしまったそうです。同じ聖書から語っているのに信仰者から拒絶されることは説教者にとってはとても残念なことです。
・そういったことからの挫折の繰り返しで定住することがなかったのだと伝えられています。しかし、彼が定住して牧会した富士見町教会は、三百人超が礼拝に足を運んだというのですから、力ある説教だったというべきではないでしょうか。
・当然人数がそのまま説教や牧会の評価に直結するわけではありませんが、その後の植村の働きなどから考えても、非福音的な説教が語られていたわけではないと思われます。
・つまり、短期間で植村が後にした教会の人々には聞く耳が備わっていなかった、もしくは彼の言葉を正しいものと聞くことができない違った素地があったというべきでしょう。
・それは私たちの教会の中でもいえることで、説教が聖書の言葉から逸脱していないか、キリスト教信仰から離れてしまっていないか、は常に意識すべきです。
・それは自分が判断者として間違い探しをするような聞き方を勧めているのではなく、純粋に聖書に基づいた福音が語られているか、教会の信仰の養いとなるような言葉を聞くことができているかということです。
・私たちの教会の伝統には教理の言葉があります。カテキズムを読み続けているのもその一つです。これは説教のみならず教会、信仰生活が人の思いで支配されないためのものです。
・牧師や教会員が変わったら教会の在り方が変わるということでは大変まずいのです。たとえ人が変わったとしても語られること、なされることの一貫性を保つために、信仰の筋道として教理の言葉を持っているのです。
・このことを言い表す言葉として「聖書は規範する規範、信仰告白は規範される規範」というものがあります。聖書によって定められた規範である信仰告白が教会を規範する言葉として用いられるのです。
・私たちの信仰の歩みも聖書の御言葉を正しく聞き、信仰の筋道を確かに保つものとして整えられていくことが大切です。信仰の歩みは自己流だといつの間にか、神さまから離れて行ってしまったり、人の言葉に操られたりしてしまうのです。

〇「御言葉を聞くために」
・そのために正しく御言葉に聴く備えが、私たち一人一人の全存在に必要なのです。音として聞くということであれば、静かに耳を傾けたり、環境を整えたりできればよいでしょう。
・聖書の御言葉を読むということも同じです。読むべき書物とそれを読み進める識字力があれば書物として読むことも理解することもできるでしょう。

・しかし、御言葉に聞くということは何よりも神の御言葉を神の御言葉として聞くことが大切です。私たちが理解しようとしても完全に理解することができない神の言葉と向き合うのです。
・音として聞いたり、文字として読んだりすることだけではないのです。私たちが全存在をもって受け止め、それを基盤として生きていくのです。聖書に根差した生活があるのです。
・また、そのような神の御言葉に聴こうとする自分自身の思いですら、神によって与えられるものです。そして、御言葉を聞くために必要な語り手も準備してくださいます。
・語る者も聞く者もそれぞれが神の備えの中で御言葉に向き合うのです。この祈りの交わりの中で御言葉に聴き続ける教会の歩みが整えられていきます。何よりも神の前にへりくだり、神の御言葉を求めるのです。
・私たち人間の思いに先立つ神の救いの道が備えられているからです。特にレントの生活をしている私たちです。神の御言葉の実現のために地上にお生まれになり、私たちに様々なことを通して御言葉を語り、行ない、伝えてくださったイエスさまのことを思います。そして十字架による救いの実現を示してくださいました。
・この十字架の主を見上げるときに、ますます御言葉に向き合う思いが正されます。また救いの恵みの豊かさが確かにされます。あなたのの罪の救いのために、神から遠く離れている自分が神と共に生きるために主が語り示してくださった御言葉に聴き続け、神の御業に生きる新しい一週間を歩み始めていくのです。












私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 
ローマの信徒への手紙5章8節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)