集会案内
〇祈り会
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
〇教会学校
日曜午前9時~
〇バイブルカフェ
10月17日(木)10時半~
教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。
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豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!
豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。
聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。
日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。
次週礼拝
主日礼拝
日 時 : 10月6日(日) 10時15分~
説教題: 「正規のやりとり」
聖書箇所 アモス書 5章10節-12節
使徒言行録16章35節-40節
説教者: 阿部啓牧師
2024年9月29日
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
使徒言行録16章30~31節より
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聖 書 イザヤ書 43章1節-5節
使徒言行録16章25節-34節
○「牢に入れられて」
・「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」と始まるのが本日の友に聞こうとしている使徒言行録の箇所です。
・月明かりのもとで美しい賛美の調べが流れているような穏やかで落ち着いた時が描かれているように感じてしまうのは私だけでしょうか。というのも、パウロとシラスの二人だけが賛美と祈りの時を過ごしているというのであれば、彼らの日常の出来事として聞くこともできるのですが、周囲にいる囚人たちもこれに聞き入っていたとあるからです。
・囚人は一般的に犯罪人です。当然その中には凶悪犯罪人として牢に繋がれている荒くれ者といわれるような者もいたはずです。それにもかかわらず、パウロとシラスの賛美と祈りに聞き入っているのですから、静かで穏やかな時が流れていると思えてくるのです。
・しかし、直前の箇所との関りを覚えて読み進めている方はこのような姿に違和感を覚えるかもしれません。パウロとシラスは牢に入れられています。しかも犯罪に当たるようなことをしたわけではないのに、何度も鞭打たれ、足かせをはめられているのです。
・決して穏やかに時を過ごすことなどできないような状況に置かれているパウロとシラスです。もしかすると、賛美どころか立ったり座ったり、声を出したりするにも厳しさを覚えるような肉体的な苦痛に見舞われていても仕方ないような状況です。
・感情的な部分を考えてみると、無実の罪で囚われているのですから復讐心に燃えていてもおかしくありません。しかもローマの市民権を持っている、当時の社会では特権階級といえる立場です。
・あらゆる仕返しを考えることができそうな状況です。極めて一般的な人間であれば、自分が持っている力をもってあらゆる困難を遠ざけようとか、人より優位に立とうと考えてしまうのではないでしょうか。
・また何か不利益を受けた時に、相手に仕返しをしないと気が済まないなどということはないでしょうか。仕返ししたところで大した意味もないのに、自分のプライドとか、不満が募っていると気が済まないような状況になってしまって、復讐したいとか、復讐する権利があるとか考えてしまうこともあると思います。
・けれどもそんなことは自己満足でしかないことも知っているはずです。聖書的に言えば、復讐は神さまにお任せすればよいのです。私たちには自分に与えられている時の中で、神の恵みに感謝しつつ過ごしていく道が示されています。
・パウロとシラスがそうであったように、彼らを見倣いつつ信仰の歩みを進めていくことができれば、どれほど幸いであるか分かりません。この場面を見るとパウロとシラスはいくらでも復讐する理由も方法も考えられます。
・けれども彼らの言動にはそのような思いは一つもありませんでした。ただただ主なる神を賛美し、祈りの時を過ごしているのです。その内容は分かりませんが、おそらく復讐に身を任せるのではなく、純粋に主なる神を賛美し、主なる神の守りが示されるようにと祈っているのです。
・主が共にいてくださるという信仰は、主が必ず守ってくださるとの信仰と深く結びついています。極めて平たくいえば、主が共にいてくださるなら大丈夫ということです。
・どのような状況に置かれたとしても必ず主が守ってくださる確信が与えられています。その根拠に挙げられるのがイザヤ詩43章4節の「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛」するということです。
・あなたは主なる神から見て、価高く、貴いのです。愛されるべきものなのです。そのようなあなたが救われ、守られることを誰よりも主なる神御自身が求めておられるのです。
・そのような思いに満たされているパウロとシラスです。大胆に心からの賛美と祈りをささげることができたのです。ひどい仕打ちを受けた直後であるにもかかわらず美しさを覚えるほどの賛美と祈りへと導かれたのです。
・そしてその賛美と祈りに他の囚人たちが聞き入っているというところに聖霊のお働きを見ることができます。これは決してパウロとシラスの賛美と祈りによって他の囚人たちが心地よさを覚えるほど上手だったということではありません。パウロとシラスに働きかけてくださる聖霊が背後にいてくださるからです。
・今この牢では聖霊が確かに働いてくださり、キリストの権威によって支配されている場所となっているのです。だからこそ凶悪犯であったとしても静かに聞き入っているのです。
・そこには鞭打ちによって傷ついているにもかかわらず、賛美と祈りをささげている姿への感銘や尊敬があったかもしれません。それでもそのようにして二人を用いられた主なる神のご支配がここにあることは間違いありません。
〇「大きな地震」
・そして彼らが囚われている牢の周辺を大地震が襲います。パウロたちの視点からすると、主なる神によって引き起こされた救出の出来事だとみることができます。彼らの祈りが聞き入れられ奇跡が起こされたといっても良いでしょう。
・看守の視点からすると「牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」というとんでもないことが起こってしまったというべき状況です。
・パウロたちからすると主なる神が苦境に立たされている自分たちの祈りに応えて、地震によって逃げ道を作り出してくださったのですから、すぐに逃げ出せばよいと思われます。すぐに逃げ出して安全な所に身を隠すべきだと思います。
・けれどもパウロたちはそうはしませんでした。ここにおいて彼らの思いは自分たちの身の安全に向けられるのではなく、目の前にいる一人の看守の存在に向けられているのです。
・不思議なことに、ここでパウロとシラス以外の囚人もみな逃げ出すことなく留まっています。他の囚人たちがパウロとシラスの賛美と祈りに聞き入っていたとあるくらいですから、パウロたちの言葉を他の囚人たちが聞き入れてくれたのかもしれません。
・しかし何よりも、ここにキリストのご支配が満ちていることを読み取るべきです。たとえパウロたちの姿に感銘を受けたり、魅力を感じたりして聞き従っていたとしても、それらはすべて聖霊のお働きの中で示される神からの賜物です。
・そしてパウロたち福音宣教者の歩みは、他ならぬイエス・キリストの救いの御言葉、福音を宣べ伝えるものです。救い主であり、まことの王であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。
・その一端としてこの物語が示すのは、すべての囚人をも統率するほどの力を持っているキリストのご支配です。パウロたちの賛美と祈りという信仰の歩みによって、囚人すべてにキリストが示されて、キリストの権威がこの場を支配しているのです。社会的にみれば悪事に手を染めた者たちですから、自分勝手に逃げ出すことなく、ここにとどまっているというのは驚き以外の何物でもありません。
・悪事のほとんどは自分勝手な思いの高まりの中で行われてしまうものです。人のことを顧みることなく、自分の欲求を満たすために生きる中で、人との関係における罪を犯してしまうことがほとんどです。
・そのような者たちですら、逃げ出すことなく留まらせる力が賛美と祈りにはあるのです。悪い思いで満たされてしまっている者すらも変える力を持っているということもできるでしょう。
・一方で看守と言えば、「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」と27節にあります。
・ここに彼の動揺がはっきりと見て取れます。皆さんは人生の中でどれだけ動揺した経験がありますか、その時は冷静なつもりでいても、後で動揺していたと気づかされることもあるかもしれません。
・彼は職務中であったにもかかわらず居眠りをしてしまったのでしょう。大地震によって目が覚めて、辺りを見てみると状況が一変しているのです。ただ建物が壊れているのとは訳が違います。
・牢がすべて壊れているのです。看守からすると絶望的な状況です。しかも自分が居眠りをしていたので、これを機にすべての囚人が逃げ出してしまったと思ったのです。
・自分の職務怠慢と目の前にある状況を考えると責任を逃れることはできないと考え、自殺をしようとするのです。寝起きの状況での大きな動揺の中、冷静な判断をすることができずにいたのです。
・しかし、そこに「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と大声で叫ぶパウロが登場します。パウロがこの看守が責任を取らされることを気にしていたのかどうかは分かりませんが、この状況ですべての囚人たちが逃げ出すことを相応しいとは思わなかったのです。
・パウロたちは過ちを犯していないけれども、他の囚人たちは話が別です。それぞれにしでかしたこととの関りで牢に入れられているからです。犯罪者の逃亡に加担することはないのです。それどころか、彼らすべてをこの場にとどめているのです。
〇「主を宣べ伝える者として」
・パウロは主を宣べ伝える者として、社会的にも正しい歩みを貫いているといえるでしょう。神と人との前に誠実な者として生きているのです。囚人たちには与えられた刑罰を全うすること、いわば法を守らせるために、看守に対しては思いやりをもって向き合い、彼の不利益となることはせず、彼を助けるために残ったのです。
・パウロの叫びを受けて牢の中を確認した看守は「パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し」ます。先ほど確認したようにこの場を支配しておられるキリストにひれ伏していると言えます。
・この看守もパウロとシラスの賛美と祈りを聞いていたはずです。この二人がどのような信仰をもって牢の中で過ごしているかの具体的な姿を身近に見ていました。だからこそ「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」というのです。
・通常で考えれば、ここで出てくる言葉は「ありがとう」といった感謝の言葉のはずです。しかし、看守は救いを求める言葉を発するのです。自分自身の罪の姿を突き付けられたのと同時に、パウロたちの言動から主なる神との出会いが与えられたのです。
・占いの霊につりつかれていた女奴隷の主人の逆恨みによって濡れ衣を着せられ、鞭を打たれて牢に繋がれたパウロとシラスでした。しかし、彼らが受けた苦痛以上の出来事がここに起こります。
・どうすべきかを問う看守たちに「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」看守はパウロとシラスを通して主イエスとの出会いへと導かれるのです。
・更に看守の家の人たち全部に至るまで主の言葉が語り示されます。そこで看守はパウロとシラスを丁重にもてなします。もはや囚人と看守ではなく、神を伝える者と神を求める者の関係に変わっています。
・キリストのご支配におかれている場であることを思うと、看守は国に仕える者としてではなく、キリストに仕える者として生き始めているのです。主の恵みに触れた途端、彼は、自らが罪の存在であることに気づかされ、救いを求めたのです。
・そして「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」との言葉を受けて、洗礼を受け、キリストを信じる者として生き始めるのです。
・一連の物語を振り返るとこの看守は直情的な性格だったのかもしれません。すぐに自殺しようとしたり、すぐに救いを求めたり、すぐに洗礼を受けたりと目の前のことの影響を受けやすいのかもしれません。それでもここで示されるのは、人の思いをはるかに超える神の招きへの備えがあるということです。
・パウロとシラスの投獄のことを思うと、看守とその家族が救われるためだとすれば、あまりに辛い出来事だといえるかもしれません。それでもやはり彼らの受けたの心身にいたる苦痛が、看守一家が福音に生きる者とされることに勝ることはありません。
・ただ一人、またその家族を救われるために神さまはあらゆることを用いてくださるのです。ルカ15.7「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」とあることを思い起こしてください。
・たった一人の為に全力を尽くしてくださるイエスさまがおられるのです。そして、このイエスさまのために仕える伝道者が召されているのです。そして、信仰を与えられたすべての者がこの働きに用いられるのです。
・私たちの誰もが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」とはっきりと言い表す者として歩んでいくことができれば、必ず主との出会いを示す器として用いられるのです。
・また言葉のみならず、一人一人の歩みを通して示すことができるものがあります。何よりもまず主なる神に対して誠実であること、主のみ言葉に誠実に生きることを祈り求めることを諦めません。
・そして、そこから示される人との歩みも必ず誠実なものとなっていくのです。神の目に価高く、貴いあなたです。そのようなあなたが神の前に良いものとして生きることを神御自身が諦めることはありません。
・もしかすると自分にはそのような誠実さの欠片もないと落胆することもあるかもしれません。それでも神さまはあなたのことを諦めることはありません。どれだけ同じことを繰り返してしまうような愚かな者であったとしても、決して諦めることなく主は語り続けてくださいます。
・むしろ良いものとされたから信仰に生きるのではなく、良いものではないことを知っているからこそ、救いを求める中で信仰が与えられるのです。
・自分が持ち合わせていないような誠実さを、主は御言葉によって示し、与えてくださいます。信仰者には神中心の生活を求める中で、隣人に対しても誠実な者として生きる道が備えられるのです。
・神と人に誠実な歩みは、神との関係が確かにされるところにこそ生じるのです。神のみ言葉によって生きる恵みを分かち合う良き交わりの中で共に生きていくことができれば幸いです。
・何より自分の隣人に大胆に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と伝えることができますように。
私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。 |
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今週の聖句
神を愛する人は,兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です。
ヨハネの手紙一4章21節より |
教会全景
礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
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