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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
9月19日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 7月28日(日) 10時15分~
説教題: 「神に立ち帰る」
聖書箇所  アモス書9章11節-15節
      使徒言行録15章12節-21節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年7月21日
「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
            使徒言行録15章11節より


○「神の救いは誰に向けて?」
・異邦人に向けての伝道ということは当時のエルサレム教会で、はっきりと確認されています。ペトロの言葉として本日の7節にも「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです」とある通りです。
・異邦人、つまり旧約聖書の言葉、律法の教えに触れることなく生きている人々に対しても、キリストの福音を伝えるために自分は神によって選ばれ、遣わされているのだというのです。
・これだけ確かな思いをもって主に仕えることは大変幸いなことです。目的がはっきりしないで、漠然と過ごしていることは思いのほか辛いことです。
・どのような仕事においても言えますが、やりがいがなければ喜んで継続することは難しいでしょう。それが賃金などの報酬に現れることもあるかもしれませんが、もっと本質的な所でのやりがいは向き合い方に如実に現れます。
・たとえ同じ仕事をしたとしても気持ちと行動が伴う人と、そうでない人とでは全く違ったことをしているといっても良いほどの結果の違いが生じるのではないかとも思います。
・ペトロもパウロも異邦人伝道のために仕える者とされていると自覚していますが、そもそも異邦人とは当時では神から離れた存在としてみなされていました。一方で旧約聖書の言葉を受けて生きてきたユダヤ人は神の民と理解され、自分たちこそ神の救いの恵みを受けるのにふさわしいと考えていました。
・そこから、キリストの福音もユダヤ人に伝えられてしかるべきだと考えるのです。むしろユダヤ人だからこそ福音を受け取り、キリスト者とされると理解するのです。
・つまりベースとして旧約聖書、そして律法の教えに聞き従っているユダヤ人であることが大切だと考えているのです。そこからの成長、バージョンアップであるかのようにキリストの救いを理解していた節があるのです。
・ただ本日の箇所では、異邦人に福音が閉ざされていると言っているわけではなく、異邦人もキリストの福音に生きることはできるけれども、順番として割礼を受けてからでないと救われないというのです。
・ここでいう割礼はユダヤ教の信仰者となる儀式で、神との契約のしるしとして行われるものです。ユダヤ人になることを求めるというよりは、ユダヤ人が持っている契約のしるしを体に刻むことを求めているのです。
・ユダヤ人キリスト者といわれる人々は、それまでの慣習を捨て去ることをできずにいるのです。それが1節に登場した「ある人々」です。そして彼らに賛同するのが5節に登場するファリサイ派から信者になった人々です。
・一言でいえば律法主義者です。キリストの福音は信じているけれども、それまでにしみ込んだ慣習や感覚といったものはなかなか拭うことができないのです。慣れ親しんだものをすぐに変えることができないのです。
・それがどれだけ重要なことであったとしても、新しい制度などを取り入れて、運用していくにはそれなりに周知する時間が必要ですし、何よりもその理由が明確に伝わらなければなりません。
・新しく始める意味がなければ、誰も変えようとは思いません。場合によっては利益を明確に伝えることも必要でしょう。そういった社会の中における状況が、使徒言行録の時代の初代教会にもあったのです。
・しかも、当時における信仰の事柄は今の日本における私たちが思うのとは桁違いに重要なこととして理解されています。自らの存在そのものにかかる事柄として理解されているのです。
・なぜ信仰が必要なのか、なぜ神を信じるのか、これは普遍的な問いだといえるかもしれませんが、一つの答えとして言えるのは、人が人として生きるためです。
・神を信じることは、神から離れては生きることはできないことを知ることだと言えます。逆に言えば、神と共に生きることで初めて本当の命を生きることができるのです。
・それに加えて聖書の時代には信仰自体がどの共同体に属するか、どのような立場で社会生活を送るのかということにかかってくることになることを考えると、全生活にかかわることだということが分かっていただけると思います。
・そう考えると、どのような形でその共同体にかかわることになるのかということも十分に吟味される必要があったのです。そのような状況で律法主義の中で生きてきた人々は、自分たちと同じように割礼を受けるべきだと主張するのです。
・当然のことながら、この主張はパウロと真っ向から対立するものです。パウロの語る福音は一貫してイエスをキリストであると信じる信仰から始まるものです。主イエスの十字架による福音を信じることです。
・信仰によってすべての人は救われるということを徹底して宣べ伝えているのです。もしここで割礼が救いの条件のように扱われてしまえば、キリストの十字架が無意味になってしまうのです。
・決して譲ることができない中心も中心です。これをなくして異邦人の救いなどありえない、すべての人に向けられたキリストの救いとなり得ないのです。だからこそ、激しい意見の対立と論争が生じたのです。

○「割礼か信仰か」
・割礼という条件に救われるということは、キリスト以前と変わりません。キリストの十字架による救いは、旧約の律法に従うことによっては救われることのない人間のために与えられた神の恵みです。
・律法を完全に守ることができれば、確かに救われた者として生きることができるでしょう。しかしわたしたちの罪はそれを不可能なものとしてしまいます。どれだけ努力しようとも完全に神さまのみ言葉に聴き従うことができない、罪を持っている人間だからです。
・このことを知らされて、キリストの救いを信じるはずのキリスト者なのですが、この時代はまだまだそのような理解が浸透していなかったのです。いや、もしかすると私たちの中でもどこかにはびこっているような思いかもしれません。
・心のどこかで良いことをすれば良いことが起こるとか、悪いことをすれば悪いことが起こるとか考えてしまうことがないでしょうか。良い結果を求めて、これ見よがしに敬虔な信仰者のように振舞ってしまったり、そのような思いに捕らわれたりしてしまうことがないでしょうか。
・私たちの行動が神さまに従うことに基づいた良いものであることは決して悪いことではありません。しかし、結果を求めてよいことをしようとするのは、私たちの欲望を満たすためでしかありません。神をあらわすよりも自分自身をあらわすものだからです。
・信仰の働きは決してパフォーマンスではありません。確かに人の目に映る良い業はあり得ますが、良く見せることが目的であってはなりません。
・見せることと見えてくることとは、同じ言動だとしてもその姿は全く異なります。見せようとすることは時に鼻につくような姿を持っていますが、見えてくることは自然と受け入れられるような姿を持っています。
・言葉を濁さず言えば、見せようとすることは胡散臭く、わざとらしいのです。見えてくることは内なる部分が表面に出てくるようなものであって、極めて自然なのです。
・この二つの姿を比べる時にどちらの方が訴える力がより強いか、真実なものとして映るかは言うまでもないことでしょう。
・つまり救われるために律法を行なおうとすることは不自然なのです。無理があるのです。むしろそのような生き方をする者を縛り付けることになっていきます。
・そして議論の結果としてペトロは10節で「なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」と問いかけます。
・軛とは複数の牛をつなげる道具です。一頭で動く自由を制限して、一つの方向に向かって進むように強制する道具です。主に農地を耕すために使われる方法です。
・割礼を受けて信仰者とされることを求めることは、この軛のような思いをわざわざ背負わせることなのです。自分では行きたい所にも行けないような不自由な状況に追いやってしまうことだとペトロは言うのです。詰まるところ、これは罪に囚われたままだということを確かに示しているのです。
・神さまはそのような人間の罪の現実の中にイエスさまを遣わしてくださり、罪の赦しを私たちの救いの出来事としてくださったのです。キリストの十字架による救いを信じるならば、もはや律法に戻る必要はないのです。
・パウロは自分の回心の出来事を通して、律法に生きるのではなく、復活のキリストとの出会いによって新しく生きる者と変えられました。この経験が彼に確信を与えています。十字架の死のみならず復活されたキリストをまことの救い主として信じることだけが、神さまの救いに生きる道なのだということを。
・そしてこの神さまの救いが限定的なものではないことも初代教会は体験しているのです。それはパウロの回心の出来事はもちろんのこと、ペトロの伝道生活の中で示されています。
・10章を振り返るとコルネリウスという自分とその一家が神さまによって遣わされたペトロによって福音を告げ知らされ、信仰へ導かれたことが記されていました。この体験が7節‐9節の異邦人伝道への召命とユダヤ人のみならずすべての者が信仰によって救われる確信を与えるのです。

○「私たちの伝道」
・このような体験に基づく言動は力を持つのです。失敗の体験は消極的な姿勢を生み出しますが、成功体験は積極的な力の源となるのです。
・信仰の事柄は目に見える結果が常に与えられるとは限りません。それでも自分で思いもよらない所で結果が与えられることも起こり得ます。
・決して誰かに見てもらいたいといった意図を持ったパフォーマンスをしていなくても誰かに影響を与えている事があります。。それが日常の姿が主によって用いられることがあることの一つの例だといえると思います。
・私たちは伝道と言われると何をしたらよいのかとか、何をすべきとか頭を悩ませるだけ悩ませて、何もできないと嘆いたり、諦めたりしてしまうことがないでしょうか。
・常々申し上げていることですが、何よりも礼拝が伝道の最前線です。あなたが変わらず礼拝を献げることが何よりも伝道であり証しとなるのです。何か特別なことをすることが伝道なのではなく、キリストに救われた者として信仰の歩みを日々続けるところに主なる神さまが働きかけてくださり、用いてくださるのです。
・また力不足を嘆くような時には神に信頼することを求めているともいえるのではないでしょうか。自分の力不足を知っている以上主に委ねる他ないからです。
・そのような私たちに必ず日々主のみ言葉に聞き従う歩みをする中で自然と主を証しする瞬間が与えられます。
・私たちは異邦人伝道ということ聞くとき、自分たちが受ける側である異邦人の一人であることに感謝することがあるかもしれません。当然それも一つの姿ですが、それにとどまらず、異邦人として福音を知らされた者である以上、自らに与えられた救いの出来事を更に伝える器として用いられることにも思いを向けさせられるのです。
・あなたに福音を告げ知らせてくださった方が、あなたの隣人にも知らせてくださらないはずがありません。あなたに与えられた救いの出来事が必ずあなたの周囲にいる一人一人にも起こると信じて、み言葉に聴き従い、賛美と祈りの日々を歩み続ける先に、すべての人に向けて福音が語り示される希望が確かにあるのです。











私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
光の子として歩みなさい。 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
    エフェソの信徒の手紙
       5章8節b、9節より

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牧師 阿部 啓(あきら)