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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
2月20日(木)10時半~



教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 主日礼拝
日 時 : 2月16日(日) 10時15分~
説教題: 「ひるむことなく」
聖書箇所 サムエル記上3章10節ー18節
     使徒言行録20章25節ー31節
説教者:  阿部 啓牧師



         2025年2月9日
「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
             使徒言行録20章24節より


聖 書   エレミヤ書30章1節ー3節
      使徒言行録20章13節ー24節

○「エフェソを避けて」
・「わたしたち」と表現されるパウロの同行者たちはトロアスからアソスに行き、そこでパウロと落ち合って、ミティレネにつき、更にサモス島に寄港し、ミレトスに到着したことが記されます。ここで注目したいのは、彼らがエフェソによらないでミレトスに向かっていることです。
・理由として本日の16節には「パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである」とありました。時間節約のために意図的にエフェソを避けているのです。
・エフェソの町に対する姿勢を振り返ると18.21では「神の御心ならば、また戻ってきます」といって別れています。これは再び訪れるの可能性を残した言い回しです。
・そして19章でエフェソに戻ってきたパウロです。しかし、19.21には「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った」とあります。
・ここでは明らかに先を見据えた決意が示されています。エルサレムに戻り、ローマに向かうという強い決意です。この決意の中での船旅でしたので、目的地に向かうことを優先したのです。
・エフェソの人々を避けたのは、、彼らを嫌ってのことではありません。必要以上に時を費やしてしまう可能性があることを自覚していたからです。エフェソの教会の人々は福音を語り伝えたパウロに信頼と親しみを持っていたことは想像に難くありません。
・しかし、エフェソにおけるパウロの働きと召命は既に次に向けられているのです。エフェソに寄り道したならば、多くの人々が自分を訪ねてくることが十分に予想できたのでしょう。そして、訪問者を無下にできない自分であることを自覚していたはずです。
・御言葉の解き明かしや祈りの要請など様々な交わりの必要が生じることからかなりの時間を費やすことになると分かっているので、エフェソに寄ることを避けたのです。
・時間を惜しんで先に進もうとするのは、五旬祭にはエルサレムに着いていたいとの思いからでした。五旬節はユダヤ人にとって大切な祭りだったこともありますし、クリスチャンにとっては聖霊降臨の出来事が与えられた特別な時でもあります。
・だからこそ、五旬節はエルサレムの教会の信徒たちと共に過ごし、聖霊の働きの実りとして、アジア州、アカイア州、マケドニア州の教会からの献金を持参したいと思っていたのではないかと思います。
・聖霊のお働きの素晴らしい実りが与えられたことを共に喜びたいと思ったのです。それは献金での助けで示される伝道の実態があるからです。パウロの伝道旅行の成果です。
・パウロが旅した各地で信仰者が呼び起こされ、教会がたてられたのみならず、豊かな成長が与えられたしるしだったのです。そして、迫害によって疲弊しているエルサレム教会に、聖霊のお働きによって与えられた伝道の実りを示し、励ましを与えることを望んでいたのだと思われます。
・それでも、エフェソ訪問を避けながらも、エフェソの教会をないがしろにしたわけではありませんでした。ミレトスを出港するには少し日にちがあったのでしょう。そこでパウロはエフェソの教会の長老たちを呼び寄せて、別れの言葉として、教会に励ましと訓戒を示す告別説教を語り始めます。

〇「エフェソでの姿の振り返り」
・パウロはまず、18節から21節でこれまでの自分の姿を振り返ります。それは「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです」と言い切ることができるほど一貫していました。
・具体的には19節で「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」と言っているとおりです。
・何よりも謙遜さをもって仕えてきたパウロでした。簡単に言えば、上から目線ではなく、謙ってキリストの福音を伝えるために仕えているということです。何かを伝えようとするときに、「教えてやろう」といった感覚で語ったとしても求めていない相手には到底聞いてもらえないでしょう。
・どれだけ正しく、良いことを語っていたとしても頭ごなしにこれを信じなさい、これだけを聞けばいいのだといった感じで訴えても溝は深まるばかりです。人の思いを満たすために躍起になって、楽しみなどの人気どりに向かってしまうのは本末転倒ですが、あまりに自己中心的な語りかけは逆効果です。
・そこで今を生きる私たち教会が信仰者の集まりとして何をどうすべきかについて、ここで語られるパウロの姿から少しでも読み取ることができればと思います。
・今確認された謙遜さに「涙を流しながら」と続きます。涙が伴うのはそこに深い思いが伴っていることを意味するといえるでしょう。これは悲しみの涙ではありません。教会と信者とされた人々の成長に対する喜びの涙です。
・何とかしてキリストの福音を伝えようと人々とかかわってきたパウロが、少しでも伝わったと思わされた時に涙したのです。それだけ信仰が伝わることは大きな喜びなのです。
・だからこそパウロは時に感情を露わにして喜びの涙を流したのでしょう。淡々と語ることだけでは伝わることは限られてくるのではないでしょうか。言葉の背後にどれだけの思いがあるかどうかで、言葉の持つ力は大きく変化します。
・その言葉が届いた時に涙するほどの強い思いをもって伝道に励んだパウロだったのです。私たちも自分がキリストの救いにあずかっている喜びを伝えるために強い思いをもって向き合うことが大切です。
・その思いが確かで強いものであるならば、必ず相手に伝わります。そして主の御心に適う真実なものであるならば、聖霊のお働きによって実りあるものとされる確信を使徒言行録におけるパウロをはじめ、様々な使徒の働きを通して示されてくるのです。
・迫害による試練を経験しながらも、主にお仕えしたと断言するパウロたちの働きがその確かな証言です。主は必ず用いてくださるのです。一つ一つの出来事を見る時に耐え難い苦しみが伴うことがあったとしても、確かな助けが与えられ、希望は決して失われないことが示されるのです。
・これはパウロの個人的な信仰の強さによる証言ではありません。パウロは個人的な体験談を広めているわけではないからです。語るのは自分の事ではなく、キリストの福音です。だからこそ「力強く証ししてきたのです」と21節で断言するのです。

〇「パウロの現在」
・そして22節から24節ではパウロは現在の自分について語ります。それは聖霊の導きの中での伝道旅行の最中であり、行く先で「投獄と苦難」が待ち受けていることが分かっている現実でした。
・ならば行かない方が良いのではないかと言いたくなるのが人間的な思いです。危険が待っているのが分かり切っているのに、そこに向かう必要などないでしょう。と言いたくなりますし、考えるのが当然です。
・しかし主によって確かに召された働きに仕えるパウロにとっては、そのような苦難は些末な出来事でしかありません。本当に目的を見つけ、そこに向かう覚悟が定まった時、人は目的以外のことを見ることをしなくなります。
・24節の「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」との言葉は清々しさすら覚えるものです。彼は自らに課せられた任務のために生き、そして死ぬことを望んでいます。人生のすべてをここにかけているからです。それだけの目的に出会うことができるのは、本当に幸いなことではないでしょうか。
・だからこそ、多くの教会をたてるために仕えることができたパウロだったといってよいでしょう。実際には自らの体験を通して語ったことはいくらでもありました。しかし、それは自分を伝えるためではなく、キリストを紹介するためだったことは言うまでもありません。
・このことは本日の箇所で繰り返し用いられている言葉から明らかにされることだと思います。それは21節と24節では「力強く証し」するといわれ、23節では「はっきりと告げてくださっています」と訳されている言葉です。
・この三つの箇所は、すべて同じ単語で、直訳すると「厳かに証ししている」という単語です。ただ語るのではなく、確信に満たされて、厳かさを伴って語るのです。
・自分のことを語るだけならば、厳かさは必要ないでしょう。自分が厳かな存在だというのであれば別の話ですが、そんなことをパウロは思ってもいませんし、聞く人々にも簡単に見破られてしまうことでしょう。
・たとえ受け入れられたとしても、それは嘘をついていることに他なりません。自分こそはあなたと違って、特別な厳かな人間だといえる人間は誰一人いないからです。人間は誰もが同じ人間です。特に主なる神さまの前にあって、人間は人間です。そこに優劣や上下関係はありません。だからこそ、パウロは自らを「全く取るに足りない者」だと言いながらも、厳かさをもって力強く証ししたのです。
・パウロに投獄や苦難をはっきりと告げてくださる聖霊のお働きは、神の力そのままに語り示される言葉です。これは地上の誰の言葉よりも厳かさをもって語り示されるものだったのです。私たち教会もこの厳かさの中でキリストの福音を聞き、受け取り、伝える者として遣わされていくのです。

〇「一つ残らず」
・旧約聖書の時代では、神の御言葉は直接的に語りかけられる時代を経て、祭司や預言者を通して語られるようになっていきます。そしてその内容は極めて具体的です。更に喜ばしい知らせだけでもありませんでした。
・パウロの投獄や苦難など比べ物にならないほどの規模の出来事が語られます。神の民であるイスラエルであるにもかかわらず、神に従うことから離れ国が亡びる苦難を経験させられることになります。
・しかし、そのような国の滅亡からの回復の希望が語り始められるのが、本日のエレミヤ書の言葉です。旧約聖書のイスラエルの民からすると国を取り戻す希望に満ちた言葉が語られるのですから「ひとつ残らず巻物に書き記しなさい」といわれる時、希望に満たされて喜び勇んで準備するような姿が想像できます。
・エレミヤ書30章3節では「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。」と言われます。
・これをそのまま現代のイスラエル・パレスチナ問題に適用させることはできません。あくまで旧約聖書においてイスラエルの民に対して語られている言葉だということを確認しておくことは大切でしょう。政治的状況の中で領土拡大や功績をあげるために用いるような理解ではありません。
・神の民が、神の言葉に立ち帰ることを求め、そこで国の回復が救いとして示されるのです。つまり神さまとの関係の回復による国の復興が示されるというべきでしょう。
・パウロもまた、神との関係の回復をもたらすキリストの福音のために「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。」と20節で語ります。
・語るべきこと、伝えるべきことはすべて教えたのです。それは彼の熱意ある言葉によって示された事柄でした。
・私たちでいえば説教においてなされる働きです。しかし、思い違いしてはならないのは、この働きの結果が語る者だけにかかっているのではないということです。当然語る者にかかる比重は大きいですが、聞く側にも必要な聞くべき姿が求められます。
・説教が神の言葉として語られるのはそれを神の言葉として聞く信仰が伴うからです。説教者個人の思いが語られるだけでは、そこに厳かさは全くありません。キリストを証しすることをやめた説教は神の言葉となり得ませんし、そのような言葉に満たされた教会はもはやキリストの体としての教会の姿を失っているのです。
・しかし、礼拝が厳かな時であり続けるのは、神の言葉が神の言葉として語られ、聞かれる説教がなされ続けるからです。ここには聖霊のお働きが不可欠です。人によって語られる言葉が、神の言葉として聞かれるためには人の努力では届かない限界があるからです。
・私たちが人間である以上これはどうしようもない現実です。しかし、限界あるこの私のためにキリストは聖霊を約束してくださいました。神の御言葉を分からない私たちに理解させてくださる真理の霊を約束してくださいました。
・この恵みに与るための聖霊降臨の出来事です。そして聖霊によって示される神の御言葉であることを知るとき、礼拝の場が地上のどのような時よりも厳かな時であることが示されます。そこでは、信仰が趣味の一つであるかのように考えられてしまうところから先に進んで、生きるために不可欠なものであることが明確に示されるのです。
・パウロが一つ残らず語り示した信仰の言葉と証は、それに触れた者を神と共に生かすためのただ一つの事柄なのです。そしてこれは出し惜しみするようなものではなく、すべての人間に向けられている神の恵みです。
・神の恵みは限りなくすべての人に向けられています。私たちもまた、この恵みを受けた者として伝える働きへと召されているのです
・生も死も超えて働いてくださる神の恵みを、一つ残らずこの身に受けている喜びを共にすることができれば幸いです。





私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。


今週の聖句 
来て、神の御業を仰げ
人の子らになされた恐るべき御業を
        詩編66章5節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)