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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
4月25日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 4月14日(日) 10時15分~
説教題: 「救い出されたペトロ」
聖書箇所  ダニエル書3章26節-30節
      使徒言行録12章1節-11節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年4月7日
「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」
           使徒言行録11章26節より


〇「散らされた人々」
・ディアスポラという言葉はもともと新約聖書が書かれているギリシア語で、分散、離散を意味する単語で、そこから離散の民という言葉として用いられるものです。
・手元にある辞書を要約するとこのようなになります。「外国に捕囚になったり移民等で各地に離散したユダヤ人を指すが、新約では離散して各地にあるクリスチャンを離散の民とみている」ということです。
・旧約聖書で確認できることは神の民イスラエルが北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、北王国が先に滅び、南王国は最終的にバビロニア帝国に敗北し、バビロン捕囚の道を辿ります。
・つまり神の民であるイスラエルは神からの約束の地を失ってしまい、それぞれバラバラに散らされた民として過ごしていかなければならない状況になってしまうのです。
・このような民の姿からディアスポラのユダヤ人といわれることがあります。神の都であるシオン、つまりエルサレムから離れて生きなければならないユダヤ人の現実でした。
・それでも旧約聖書では、主が離散したイスラエルの人々を集められる希望が示されています。バビロニア、エジプト、アッシリアに散られた人々に主が道を備えてくださり、集めてくださるという希望です。
・そして新約聖書では「離散して各地にあるクリスチャンを離散の民とみている」とありました。本日の箇所を見ると「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は」とあります。
・迫害を理由に住む場所を追われた人々が多くいたことが分かります。そして、そこではユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかったとあります。これはユダヤ人には聖書的な下地があったことが理由として考えられます。
・キリストについて聞く下地があるといっても良いでしょう。私たちの感覚から言えば、旧約聖書の言葉を知っているならば、キリストについて語りやすいという感じでしょうか。
・それだけではなく、異邦人であることを考えると、言語や文化の違いもあったようです。けれども、彼らの仲間にはギリシア語を話す人々もいて、ギリシア語圏の人々に対しても福音を告げ知らすこととなっていきました。
・ただここでのポイントは、21節の「主がこの人々を助けられたので」という一言です。ここは直訳すると「主の手が彼らと共にあったので」ということです。
・主の手が共にあるということは何を意味するのでしょうか。明確な答えは分かりませんが、聖霊が共にいて働いてくださったと言い換えることができると思います。
・言語や文化を理解して、福音を伝えることができたとしても、聖霊のお働きがなければ、人が主に立ち帰ることはありません。信仰者とされることは言葉を理解することではありません。主のお働きによって信じる者とされることだからです。
・ここにおいて散らされた人々は福音宣教の業に仕える者とされていったのです。遠くエルサレム教会までそのうわさが届くほどの目覚ましい働きがなされたことが分かります。

〇「派遣されてきたバルナバ」
・そしてエルサレム教会はバルナバを派遣します。彼はサウロを恐れていた弟子たちに対して、回心の出来事を説明しました。
・更に4.36では「慰めの子」とも称されていた人物であることが記されており、彼が人々に慰めを与える働き、具体的には忍耐強く人の話に耳を傾け、相応しい励ましの言葉や祈りをなすことができる人物であったことが示されます。
・ここでも、新しい信仰者が生み出され、大きく成長し始めたアンティオキアの教会に相応しい導き手として派遣されたのは間違いありません。
・23節、24節には「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。」とあります。
・ここでの「主から離れることのないように」という一文も直訳すると「主と共にとどまるように」となります。離れることを前提に語るよりも、留まり続ける、一緒に居続けることを勧める方が良いように感じますが、迫害によって離れてしまう者が少なからずいたことが考慮されているのかもしれません。
・いずれにしても、バルナバの働きは、アンティオキアの信仰者たちを大いに励まし、導くものであったことがはっきりと示されてきます。既にキリストが伝えられはじめ、伝道の機運が盛り上がっている中で更に人々を主に導く働きを担ったのです。
・また、使徒言行録という大きな物語の中でのバルナバの働きは、サウロとの関りです。9.30節で一度サウロは表舞台から姿を消していますが、ここでバルナバによって呼び戻されます。そしてアンティオキア教会には良き指導が与えられたのです。
・それは間違いなくキリストを中心とした信仰の歩みでした。それがはっきりとするのは、26節に初めて登場するキリスト者という言い回しです。
・これは、油注がれたものを意味するクリストス、つまりキリストという語に「~につく者、~に従う者」を意味するラテン語の語尾をつけたクリスチアノゥスという語が使われています。
・なぜこれがキリストを中心と信仰の歩みを明確にするかと言えば、これは教会の中から出てきた言い回しではないと考えられているからです。むしろアンティオキアの異邦人によってつけられたあだ名が始まりだといわれています。
・つまり、あいつらはいつもキリスト、キリストばかり言っているから、クリスチャンと呼んでやろうといったある種の揶揄が含められた命名だったと思われるのです。
・しかしそうやって名付けられるほどに、キリストの事ばかり口にしていた教会だったことが確かにされるのです。教会で語られる言葉がキリストにかかわることばかりだったのです。
・これは当たり前のことですが、当たり前のようにできることかと言えば決してそうだとは言えないかもしれません。そういった誘惑やの現実の中を歩んできている教会の歴史だからです。
・つまり、キリストを中心とした教会形成を目指しながらも、実際には人の思いや言葉に支配されてしまう教会となってしまうことが少なくないからです。しかもそれが明らかな悪意に満ちたものであるならば断罪もしやすいのですが、良心つまり良い思いの中での言動である時に、その判断が鈍ってしまうということが起こりかねません。
・しかし、地上の教会は人間の集まりである以前に、キリストによってたてられた集まりです。それはキリストを救い主と信じる者とされたクリスチャンの集まりだからです。
・そして、私たちが自分が遣わされているこの場所で、キリストを語ること、礼拝を喜んで献げるところにあらわれる信仰の応答があるのです。
・キリスト者がキリスト者である一番の理由は、キリストをキリストとして信じていることです。十字架にかかり、復活されたあのナザレのイエスが、まことの救い主、キリストであることを信じる信仰者です。
・先週、共に祝ったイースターの喜びは、私たちが主の傍らにとどまって生きる新しい命の道を確かに歩み始めることができる喜びに他なりません。

〇「教会としての交わり」
・そして、本日の箇所はアンティオキア教会がエルサレム教会を援助する姿に言及して終わります。これは見返りを求めない奉仕の働きです。
・特に41年‐45年にローマ皇帝に在位したクラウディウス帝の時代に大飢饉がパレスチナで起こったことが示され、これに対して援助の品を送るアンティオキア教会です。
・特にエルサレム教会の様々な迫害によってキリスト者が散らされている状況が本日の冒頭でも確認されていました。更には経済的な衰弱も背景にはあったようです。
・そのようなエルサレム教会を助けるために、アンティオキア教会が奉仕の働きを申し出るのです。29節には「そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。」とあります。
・ここでの「力」とは経済力を意味するものです。そして援助品という語もなく、「そこで、弟子たちはそれぞれの経済力に応じて、各自が、ユダヤに住む兄弟たちに奉仕のために送ろうと決定した」というのが、直訳です。
・エルサレムを追われ、散らされた人々によってたてられたアンティオキア教会ですが、この状況において、エルサレム教会を援助することができるほどの成長が与えられているのです。
・この援助の規模がどれほどなのかは明確ではありません。しかし、エルサレム教会の窮状を助けることができる存在であることは間違いありません。
・このような結果を見ると、散らされたことも用いられる神さまのご計画があるということもできるかもしれません。しかし、それだけでなく、私たちは地上の教会として歩みを進める時、決して一つの教会だけでたっているのではない、ということに目を向けることが大切ではないでしょうか。
・祈りをもって支えるということは、祈りによって与えられた援助をもって支えるということでもあります。それは決して貧しい群れを豊かな群れが支えるということを指しているわけでもありません。
・教会ごとでの財政状況には様々な違いがあります。しかし、一つの目的に向かっての働きを支え合う地上の群れとしての交わりが与えられています。
・その分かりやすい一つの例が献金によって支え合うということです。ただそれに限らず、人的な交流の中で与えられる援助ということもあるでしょう。
・教会が教会として立つときに、その中心にはキリストがいてくださいます。たとえ異邦人であってもキリストを信じるキリスト者とされた者はもはや異邦人ではなく、キリストに結ばれた者とされていくのです。
・たとえ散らされた者であったとしても、散らされた先で生活していた異邦人であったとしても、その隔てがキリストを信じる信仰によって取り除かれ、同胞の民として生きる共同体、キリストがかしらとしていてくださる教会としての交わりの中で共に生き始める道が拓かれるのです。
・何よりもまず私たち一人一人が、この教会の中でキリストを信じる信仰者として、互い祈り励まし、仕え合う群れとしての歩みを確かに進め、自分にできることは何かと祈り求めながら、教会生活を送るできれば幸いです。
・また、積極的な奉仕の喜びに満ちた教会は生き生きとした交わりとして、キリストを証しする力を持つ群れとして立っていくことができるはずです。
・そして、そのような賛美の喜びに満ちされた交わりが、民衆全体から好意を寄せられたと2.47で確認されていました。私たちの現実でもこれと同じことが起こらないはずがありません。
・キリスト者としての歩みはその人一人の中で完結することはありません。教会の交わりの中にある他の教会員や他教会を覚えて祈ること、自分の持てる力をもって教会に仕えること、これらもまた復活の主の救いにあずかる者としての応答の姿です。
・良き教会としての交わり、そしてそれぞれの年齢や信仰年数に限らず、成熟したキリスト者としての成長を求める新しい一年を歩み始めましょう。
・そして主が共にいてくださる喜びを携え、それぞれの馳せ場に散らされていくことができれば幸いです。











私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださいました。
   ペトロの手紙一1章3節より

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牧師 阿部 啓(あきら)