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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
7月18日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 7月21日(日) 10時15分~
説教題: 「神の恵みはすべての者に」
聖書箇所  詩編40編8節-18節
      使徒言行録15章1節-11節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年7月14日
「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」
            使徒言行録14章27節より


○「第一回宣教旅行のおわりに向かって」
・パウロは異邦人伝道のために、三回の宣教旅行に出かけます。それ以外の場所でも、その時々にキリストの救いを福音として告げ知らせたパウロであったことは疑いようがありません。
・本日の使徒言行録の箇所では、三回の宣教旅行の一回目が終わりを迎えます。付録がついている新共同訳聖書をお持ちの方は7の地図ご覧いただくとその足跡が確認できると思います。
・シリア州のアンティオキアからデルベに向かって行って、その後そのまま同じ旅程を戻ってきてアタリヤから再びアンティオキアに向かっていくことが分かります。
・この旅行地図を見て何か感じることはないでしょうか。あなたならばこのような道を辿って旅しようと思うでしょうか。私にはできることならば避けたいと思う道程です。
・地図を見てもわかるように、デルベからそのまま東に進んでいけば、出発地であるシリアのアンティオキアに戻っていくことができるのです。出発地に戻ることを考えるとその方がはるかに効率的であったと思われます。
・けれども、デルベで福音を告げ知らせたパウロとバルナバは「リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら」とあります。つまり、あなたがパウロならばこのような道を選択するかを聞いているのです。
・私ならば、できることならば違う道を選択したいと思います。出発地に戻ることが目的ならば一刻も早く戻りたいと思うのも一つですが、二度と通りたくないと思うような町だからです。
・旅の順番に従って振り返ってみると、アンティオキアでは13.50に「ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」とありました。
・イコニオンでは14.5‐6「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。」ともありました。
・そしてリストラでは14.19「ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」ともあります。
・苦い思い出という言葉では片づけられないような迫害に晒された町々をわざわざ通って戻っていくパウロとバルナバなのです。このような旅を敢行する友人がいたとすれば、一言「やめとけ、死にたいのか」と苦言を呈するような状況です。
・けれども彼らの第一回宣教旅行は、わざわざこれまで来た町々を辿りながら帰路を進めていきます。石を投げつけた人々とも顔を合わせるかもしれません。
・殺意をもって石を投げつけ、死んでしまったと思って町の外に引きずり出した相手です。そのような相手と再会したならば、今度こそ命の保証はありません。
・私たちの誰もがそのような危険が分かり切っている場所にわざわざ足を踏み入れたいとは考えないのではないでしょうか。ただそれは自分のための働きの場合です。自分の身の安全を確保しながら旅の計画を立てるのは当然です。
・そこで確認したいのは、パウロたちの旅行は宣教旅行だということです。自分が行きたいから行くような単なる観光旅行でも、知見を広めるためのスキルアップの旅行でもありません。
・主の福音を宣べ伝えるための旅だったのです。そして、ここに登場した三つの町で経験したのは迫害ばかりではありませんでした。迫害だけに目を向けると二度と足を向けたくない町々なのですが、これらの町の中にも新しい信仰者が与えられていたことも確認できます。
・アンティオキアでは13.48「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」
・イコニオンでは14.1「パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」
・リストラでは14.18「二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた」とあるように、偶像礼拝を止めることができたのです。
・自分にかかるような迫害を恐れるのではなく、新しく誕生した信仰の群れを励ますために喜んでこれらの町に足を向けているパウロとバルナバなのです。

○「苦難の道」
・わざわざ苦難の道に向かわなくても良いのではないかとも思われるのですが、私たちはしばしば信仰のことを自分が幸せに生きるための道具だと考える節がないでしょうか。
・あなたにはなぜ信仰が必要なのですか。あなたはなぜ信仰を持っているのですか。こう問われた時の明確な答えを持っていますか。冒頭から質問を繰り返しているように思いますが、大切なことなのでぜひ自問していただきたいと思います。
・もし自分が幸せに生きるためだということならば、その幸せはどのようなものでしょうか。様々な苦難や争いなどから遠ざけられて平穏無事な生活を送ることだと考えているとすれば、少し立ち止まっていただきたいのです。
・なぜなら、そのような思いは極めて人間の側からの要求に過ぎないからです。もっといえば、地上で生活する以上何一つストレスや緊張が生じない平穏無事な生活などありえません。
・むしろ苦難の中でどう生きるのかが問われるのです。このような人間の現実の中で生きる信仰者です。苦難や迫害の中に置かれることが必ずと言っていいほどあるのです。
・二人の伝道者が生まれたての信仰者と教会に「「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。」ことが22節からも示されます。
・神の国に向かう信仰者の現実がいかに苦しみに満ちたものであるかがわかります。しかもここで言われている「信仰に踏みとどまるように励ました。」と言われている励ましは生半可なものではなかったはずです。
・パウロが命を奪われそうになるほどの深刻な迫害を経験したことを考えると、それぞれの地の教会はそれなりの苦しみを経験していたはずです。そのような群れを放ったまま帰ることなど到底できなかったのです。むしろ、丁寧に、そして確かに励ます具体的な言葉を語ったパウロたちだったと思われます。
・ただ頑張れと応援するような言葉ではなく、このような時にはこのような言葉を主が語っていてくださる、といった具合に極めて具体的に励ましを与える言葉を伝えていったのだと思います。
・翻って私たちはどうでしょう。信仰が単にハッピーをもたらすような感覚を持ってはいないでしょうか。しかし、そればかりだと自分の思い通りにいかないことが起こると、神さまに不満をのこして離れ去ってしまうことにもなりかねません。だからこそ信仰に踏みとどまるように励ましたといわれているのではないでしょうか。
・特に誕生したばかりの信仰者です。何の信仰の経験もないような状況です。そのような群れが迫害に晒されていることを考えると、確かな励ましが必要なことは間違いありません。
・たとえ幼児でもいつも自分にとって良いことばかりではないことを知っています。小中学生になれば当然のごとく自分ではどうすることもできないような困難や理不尽に直面することもあるでしょう。
・信仰はそのような地上における苦難の中でこそ光として輝くのです。信仰者としてどのように苦難を受け止めるべきか、地上での苦難を踏ん張るために何が必要か、主が地上において共に生きてくださるとはどういうことかを、信仰の先輩として確かに証ししているのです。

○「委ねて旅立つ」
・そして励ましを与えるだけではなく「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」とあります。
・まず長老の任命は私たちの教会における長老の任職とは少し性格が違うようです。私たちの教会では牧師は御言葉を語る宣教長老、そして、教会総会の選挙で選ばれ、教会を治めるために仕える治会長老がいます。
・それぞれの働きが明確にされていますが、ここでは教会を霊的に導き、更に教える役割を担っていたようで、宣教と治会の両方に仕える者たちだったようです。それだけ重要な存在だったことがわかります。
・パウロの視点から見れば、安心して教会を任せることができる者だということができるかもしれません。強烈な指導力をもって働いたパウロでしたから、彼のお眼鏡に適う存在だと思われるからです。
・けれども繰り返しになりますが、パウロは自分の思いの達成のために働いているわけではありません。「彼らをその信ずる主に任せた」と言葉が加えられています。
・パウロのお眼鏡に適うことが重要なのではなく、主にお任せすることが最優先されるのです。その人の能力や人格には様々な違いがあることでしょう。しかし、何よりもここにたてられた人を主に委ね、主が用いてくださることを確信しているのです。
・私たちはしばしば教会の中でも自らの思いの達成を求めてしまっていることもあるかもしれません。それは信徒であろうと牧師であろうと誰もが持ってしまう可能性があることだと言わざるを得ないでしょう。しかし、そういった姿は必ず退けられなければならないことがここから示されるのです。
・それは、主に任せた後、彼らは次の場所に旅立っているからです。自分がとどまって力を発揮するだけではなく、それぞれの教会が自発的な信仰をもって成長することが求められているのです。
・良き指導者の存在は不可欠です。しかし、その存在は永続するものではありません。むしろ人が変わったとしても教会としては変わらない姿を持つべきなのが、私たち地上における教会です。
・特に長老制度に立つ教会はこのことを意識していくべきです。監督としての牧師によってではなく、また会衆の総意としてでもなく、選挙によって神の御心が示され、選ばれた長老会の働きによって歩みをなしていくからです。
・そして、私たちの教会の伝統では教理の言葉を大切にしています。それは教会の中にいる人々がどれだけ入れ替わったとしても、教会としての信仰は変わらないことを求めていることを意味します。
・教会が人の思いにとらわれて変化することなく、聖書に聞く信仰の伝統の中で培われた教理の言葉に基づいて、いつの時代にも変わることなく、主の教会として立つことを求めるのです。
・それは使徒言行録の状態に照らし合わせると、地上の苦難に晒されても逃げ出すことなく、そこに踏みとどまる力の源だともいえるでしょう。
・誰でも逃げ出したくなるくらい強大な相手と向き合わなければならない時も出てくるかもしれません。本日の旧約聖書は有名な少年ダビデと巨人ゴリアトが戦う物語です。
・兵士の誰もが立ち向かうことを恐れる相手を前に、少年ダビデは大した装備なしにゴリアトと戦います。サウル王の用意した武具も少年には大きすぎたのです。
・けれどもダビデは武具以上に必要なものを身につけていました。「主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」という言葉がそれです。
・主に信頼することを決して忘れないのです。イスラエル軍にとってはこれ以上ない困難がペリシテの巨人ゴリアトでした。それに対抗する術がないかのようです。
・全く頼りないような少年が一騎打ちに出向かなければならない姿は、人の目には愚かで弱いものとしてしか映りません。それでもこの戦いの結果はよく知られているように、ダビデが石投げひもの石によってゴリアトの額を打ち抜いて勝利します。
・そこに多少はダビデの羊飼いとして生活していた日々の鍛錬や技術があったかもしれませんが、聞くべきはダビデが主にお任せしていたということです。
・パウロとダビデに共通するのはこの一点です。乗り越えられないような苦難にあっても主にお任せするのです。パウロの姿を振り返ると苦難の中でこそ、主が共にいてくださる確信が強められていることがわかります。
・フィリピ1.3‐7「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」
・囚われの身になってなお、感謝と喜びに満たされているのです。福音に生きる希望と喜びがここにあります。神の国に向かう地上の歩みの苦難を共に歩んでくださるキリストがいてくださる確信に満たされているのです。更にはその思いを共有する信仰の友、教会の存在を忘れません。
・つまり私たち、地上に生きる教会は主の御業のためになすべきことのために、なすべき状況の中で祈り仕えていくのです。

○「報告」
・シリアのアンティオキアに戻った二人は「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」とあります。
・それは美しい物語ばかりではありませんでした。それでも主なる神が共にいてくださった宣教旅行だったことを報告するのです。何よりも異邦人伝道の道が拓かれたことが大きな収穫として報告されたのです。
・これは主の十字架による救いを広く伝えることができた喜びの報告でした。そして、この出来事は様々な時と場所、人を経て、私たちにもキリストの十字架と共に生きる道が広く知らされたということにつながってきます。
・ルカ9.23,24には「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」との主イエスの言葉があります。
・この言葉を聞くときに、わざわざ苦難や困難を求めて生きるような自虐的な姿を想像する方もあるかもしれません。しかし、私たちが確認すべきは主の十字架を背負うことは、辛さを背負うことではなく、十字架によって救われた主に従う、主に任せた生き方をすることとして示されてきます。
・主イエスの十字架は私たちの力です。苦難に満ちた地上での生活に置かれている私たちに向けて備えられているものです。決してすべてが自分に都合よく解決されるわけではありません。
・それでも主イエスの十字架の出来事が誰よりも自分の思いとはかけ離れたところで行われた悲惨な出来事であったことを私たちは知っています。
・何一つ罪を持たないイエスさまが最も重い罪人の処刑方法である十字架刑に処せられたのですから。それでもこの理不尽をも受け止めてくださった主イエスの姿にあずかる信仰が与えられるのです。
・どのような苦難の中でも、主なる神にお任せする希望に満たされた信仰の道が準備されているのです。主が共にいてくださることを知らされた信仰の歩みは簡単に倒れることありません。













私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です。
    エフェソの信徒の手紙
         2章19節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)