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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
5月15日(木)10時半~



教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 5月18日(日) 10時15分~
説教題: 「告発と弁明」
聖書箇所 ダニエル書12章1節ー4節
     使徒言行録24章1節ー16節
説教者:  阿部 啓牧師



         2025年5月11日
「直ちに閣下のもとに護送いたします」
               使徒言行録23章30節より


聖 書   箴言8章32節ー36節
      使徒言行録23章23節ー35節


○「目指すべきところ」
・信仰者が目指すべきところはどこかと問われれば、その答えは一つです。神の御国である天国です。天国への希望を確かにされるのがキリスト教信仰の大きな恵みの一つです。
・ではそのために何をする必要があるかと私たちは考えがちです。この問いに対して、こうすればよいと具体的な方法を示すことができれば、どれほど簡単かと思いますが、これさえすれば大丈夫だと断言できるようなことはありません。
・というのも天国は神の御国だからです。私たちが条件を満たしていくことができる場所ではないのです。入場券を購入したり、どれだけの時間を費やせば条件を満たすことができたりするものではないのです。当然、性別や年齢など個人的な違いによって選別されるのでもありません。
・本日の箴言8章の言葉が一つのヒントとなるといえるでしょう。神の知恵である神の御言葉に聞き従うことが求められているからです。そして、35「わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。」とあるところに神の選びによって迎え入れられる神の御国の姿を見るのです。
・そして信仰にかかわることには、信仰的な気付きや出会い、成長が伴うはずです。神の働きかけにより、様々なきっかけが示され、信仰に導かれる出来事が起こります。そして、信仰者とされて生きる中で、あらゆる出来事をとおして成長が与えられるのです。
・そこには経験に先立つ聖書のみ言葉の存在があります。あらゆることを信仰的に受け取ろうとするならば、聖書の御言葉に聞き続ける生活が不可欠です。
・しかし、私たちにはそれを極めて自分中心に捉えてしまう現実があります。自己流のありかたに凝り固まってしまうのです。確かに自分の過去の積み重ねによって現在の自分が存在しています。けれども、それに甘んじたままでは十分な成長に導かれないことになりかねません。
・ある人が、洗礼を考えているけれども躊躇しているという話を聞きました。その方は純粋に信仰を求めようとしておられましたが、自分自身の仕事から二の足を踏んでしまっていたのです。信仰者としてふさわしいとは言えないような仕事をしていると感じていたからです。
・けれども、そのような自覚を持つ時点で、自らの姿を悔い改めようとしている懺悔の姿がありますし、主の前に相応し道を模索し始めている変化の表れだともいえます。
・結局その方は、洗礼を受けました。仕事といえば生活の糧であることに違いはないので、一定の期間は続けて、最終的に転職したそうです。
・信仰者の変化は様々です。主との出会いによって劇的に変えられることもあれば、徐々に変えられることもあるのです。それでも、信仰によって与えられる変化、成長は必ず与えられるのです。
・一見進んでいないような生活でも、信仰者として生きる中で天の御国に向けて徐々に進められているのです。主はそのための備えを必ず与えてくださいますし、私たちも目指すべき天の御国をしっかりと見据えて地上の歩みを進めていくのです。

〇「パウロの移動」
・そして最終的に目指すべきところは天国でありますが、一つ一つの地上での状況に目を向ける時、私たちはその都度、主の御心を祈り求めながら、なすべきことをなす人生を歩んでいます。
・特に変化が求められる時には、何を選ぶべきか、どこに向かうべきか、何をすべきかなど、自らの思い煩いを主の御前にさらけ出し、祈る経験を何度となく経験しているのではないでしょうか。
・それでも、主の御心を祈り求め、祈りの中で示された道を進めることで、主の祝福の中を生きる信仰の道を生きている私たちです。自分の力だけに頼るのではなく、主なる神の導きを信じ、より頼み、それぞれの人生を感謝と共に生きる道が許されているからです。
・また、そのような人生であることを知らされていること自体が、何よりもの神の恵みであるともいえます。自分に示されるすべての道が天国に繋がっていることを知らされ、目の前の出来事に向き合うことができるようにされるからです。苦難にあっても幸いにあっても主の備えの中にあることは、平安の道であるのです。
・パウロに示されている目の前の状況は大きな視点では、苦難の状況です。神殿を汚したとの非難からユダヤ人から訴えられているからです。これは死刑に処せられる可能性がある危機的状況です。
・神殿の裁きについては、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ人社会であっても、独自の裁きが認められていた社会的背景があります。そうなるとほとんどのユダヤ人から敵視されている状況は絶望的です。
・しかし、もう少し小さな視点から見てみると、苦難の中でも幸いとして守りが与えられています。その背景にはパウロがローマの市民権を持っていることがあり、千人隊長から丁重な扱いを受けている姿があるからです。
・パウロを移送する体制は「歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名」とあるように四七〇名です。千人隊長がその名の通りの戦力を持っているとすれば、自分の戦力の約半分を超えるくらいの戦力をもってパウロを移送しているのです。
・ユダヤ人たちが断食を伴う誓いをするほどの覚悟を持っていることもあってか、厳重な体制で襲撃に備えているといえるでしょう。またこれはローマの役人としては当然の対応だったともいえます。
・そして彼らが、社会的地位と相応の権力を持っていることに違いありません。そして、そのような上下関係の中に生きている人々が、地位の違いに一般市民以上に敏感なのは今も昔も変わらないように思います。そこには間違いなく利害関係が伴っています。
・この手紙にもそのような姿が見え隠れします。まず立場が上の総督に相応しい挨拶の言葉から始まります。そして、ローマ市民権を持つパウロを救い出したことを自分の功績として伝えます。
・そもそもローマ市民の裁判権は総督にあったそうなので、相応しい裁きの場を整えるという意味では、ローマ法に基づいた対応をしているのですから、千人隊長は当たり前のことをしていると言えます。
・そして、これまでの経過を客観的に伝えます。これはパウロにとって大変有益なこととなります。パウロが訴えられている理由は「ユダヤ人の律法に関する問題」であり、結果としてローマ法からみて「死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました」と報告します。
・更に陰謀があるために護送すると言います。これは、ユダヤ人からローマ市民を守るというローマの主権を明らかにするものです。ローマ帝国の支配力を示すためにこれだけのことをしましたという報告とも取れます。
・この報告はパウロにとってかなり有利なものであったことは明白ですが、同時に厳密に見てみると千人隊長に都合の良い報告です。それは、自分の功績として報告していることにあります。
・パウロを救い出したとの報告は、結果的には間違っていないかもしれませんが、実際を振り返ると22.22以下を見ると、ユダヤ人たちの激しい訴えの姿から何を理由にここまでの行動に出るのかを調べるためでした。
・そして鞭で打って取り調べをしようとしたときに、パウロの口からローマ市民であることを打ち明けられて、慌てて取りやめた姿がありました。
・決してローマ市民を守るためではなかったことが分かるのですが、そのような報告はしていません。またユダヤ人たちがパウロが神殿を汚したという理由で訴え出ていることにも触れていないのも、パウロに有利であることは間違いありません。
・千人隊長の報告の手紙は、自己利益を求めて、またローマ市民側に立ったものであることは否定できないのです。それでも、ユダヤ人の私的な裁判から遠ざけ、、ローマの公的な裁判を受ける道が整えられたのです。

〇「ローマへの旅の始まり」
・24節にあるように馬が準備されているのも、多くの兵士によって移送されているのも特別扱いで、無事にカイサリアに到着します。そしてパウロの出身地がキリキア州であることが確認されます。
・出身地の確認は裁判のために必要な訴訟手続きだったようで、裁判の場所や対象者についての確認がされたそうです。そしてここでは、「お前を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」ということで当事者の到着を待つことで一段落となります。
・ここでやっとパウロに対する訴えが正式な形で取り上げられることになります。私的な裁判は感情的になり、法の秩序を逸脱した暴力行為に行きつくような状況がありました。
・そのようなパウロに迫った危機も当時の支配者であったローマの法律による秩序によって回避する道が整えられたのです。ここに至るパウロのローマの市民権の使われ方同様、社会的な権力がパウロを助けることになったのは間違いありません。
・ただそれは幸運という言葉で片付けられるものではありません。やはりここでは、主の備えがあったことを確認しなければなりません。ローマの市民権という特権を持っていたことがすべてではありません。
・これらの出来事のすべてだといえるのは主の言葉です。23.11「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」との命令です。
・この言葉が実現するために、すべてのことが整えられていくのです。ローマ法の秩序もローマの市民権もローマ軍による移送も含めて、パウロがローマに行くための道が拓かれていくのです。見方によってはローマ軍というこれ以上ないほどの守りの中で旅が進められていくことになるともいえるでしょう。
・しかし、パウロの置かれている状況をみると、様々な障害によって行くべき道が妨げられているという他ありません。それでも、主の御心が行われるためにはあらゆる障害が取り除かれて、先に進む道が示されるのです。
・主のご命令がすべてなのです。その中でパウロがローマを目指す旅路に必要なことが整えられているのです。このパウロが歩んだ旅路が主の御心によるものであることを思う時、どれだけ妨げがあっても、どれだけその歩みが遅くとも必ず目的地に向かって前進するのです。
・そして、私たちの信仰の旅路がどこに向かうものであるかを思い返してみたいのです。信仰者の歩みは天国に向かっているということです。そのための信仰の成長や備えが必ずあります。その成長が遅々たるものだったとしても、少しずつだったとしても前進していくのです。
・これは極めて自戒の念をもってお話することですが、私たちは自分の生活を基準に考えて、これくらいで十分だと切り上げることが多くあります。それが自分の仕事や生活にかかわることならまだしも、神との関りの中でも同じような感覚を持ってしまうことがないでしょうか。
・馴染みがある様々なことを変えることが難しいのです。たとえ客観的に良くないと思われることにかかわっていても、すぐにそれを捨て去ることができないのです。
・それでも、主に従う信仰を与えられた者として、少しでも良い方向に歩みを進めることができるように祈り求め続ける時に、必ず変化は与えられます。あなたの歩みは先に進められます。
・ルカ11.9には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。
・求めなければ何も始まりません。そして、求めに対して主なる神は必ず応えてくださいます。そして求める以前に、求めるべきものを知らなければなりません。それは自分の罪を知ることから始まります。
・罪ある自分であることを知り、その罪が赦されることを求めるのです。キリスト教信仰の始まりは、罪を知るところにあります。ここから始まった信仰の歩みは必ず、先に進められていきます。
・自分の状況から諦めて、ここまでしかできないと開き直るのではなく、神の前に自分に頼ることを諦めて、自らを差し出し、今はこれだけのことしかすることがしかできなくても、少しずつでも御前に相応しいものとしてくださいとの祈りをもって成長させられることを求めつつ、共に進んでいくことができれば、神に喜ばれる教会としての歩みになるのではないでしょうか。
・そして、このような成長や前進は自分の力だけによるものではありません。信仰の成長は学びや訓練によって与えられるものだけではなく、主の霊である聖霊の働きかけの中ではじめて与えられるものです。私たちはこの聖霊のお働きを常に祈り求めながら、主の御心に適う信仰の歩みを進めていくのです。
・何よりも神はあなたをそのような者として選び、守り、導いて下さっています。









私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。


今週の聖句 
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
コリントの信徒への手紙二
          5章17節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)