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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
5月16日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 5月12日(日) 10時15分~
説教題: 「救済の歴史」
聖書箇所  申命記7章6節-8節
      使徒言行録13章13節-25節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年5月5日
「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った」
             使徒言行録13章9節、10節より


〇「主の召しに応える」
・私たち地上の教会が何のためにたてられているのかを真剣に考えておられるでしょうか。これは私たち信仰者の根幹にかかわることです。信仰者は何のために生きるのかということにかかわってくるからです。
・その一つの答えが本日の使徒言行録の冒頭に表れているといえるのではないかと思います。バルナバとサウロが聖霊によって送り出されているということです。
・聖霊によってということはキリストによって送り出されているということです。聖霊はキリストによって約束され、私たちに与えられている神の霊ですから、聖霊による導きはキリストによる導きと言っても過言ではありません。
・自分で計画をたてて旅するのではなく、聖霊の導きの中で彼らの行くべき方向となすべきことが示されるのです。そもそも彼らの選びが聖霊によってなされたことは13.2で語られていたとおりです。
・信仰者とキリスト教会は地上においてそれぞれの思いの達成のために生きるのではなく、神の思いを達成するために生きているのです。
・しかもそれは、私たち一人一人の思いがないがしろにされるのではなく、神と共に生きるところでまことに満たされた人生があることを意味します。
・信仰者は神の救いに対する感謝の応答として、自発的に献げていくのです。それは私たちを本当に満たすことができるものは何かということにもつながってくることです。神にしか満たすことができない人間であることを知らされ、信じ生きる信仰者です。
・救いの御言葉によってこそはじめてまことの命を生きる者であることに感謝しながら生きる時に、神が示される道に応えて歩みを進めていくのです。
・それは一人一人の状況によって変わることなく進められる神の救いの御業に応える歩みです。使徒言行録の時代から広がりをもって宣べ伝えられ始めた、神の救いである福音を宣べ伝える伝道の働きです。
・時代や場所によってその方法に変化はあるかもしれませんが、語られる事柄は常に変わらず、神が主イエスを救い主としてこの世界に与えてくださり、あなたを救ってくださるとの知らせです。
・もし、教会が社会的状況に応じて、本来語るべきことを大胆に語ることが憚れるようなことがあったとすれば目も当てられません。
・キリストの教会ですから、キリストの言葉を変わることなく語るのです。世に迎合して語るべきことを覆い隠したり、ゆがめたりすることがあっては、神さまに申し訳ありません。
・少なくとも私たちが今このようにして教会としてたっていることを思い起こすとき、信仰の先人たちが迫害や艱難の時を乗り越えてきたことを忘れてはなりません。これは世界の歴史の大きな視点からも言えることです。この後に続く使徒言行録の様々な伝道旅行の記録もその一つです。
・私たちに信仰を与え、教会をたて、救いの道を確かにしてくださる神さまの恵みに自覚的に応える道を歩み始めていくのです。バルナバとサウロが派遣された姿にも私たちが信仰をもって生きるための模範があります。

〇「遣わされた先に」
・彼らはキプロス島に着くとユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせます。ここにも知恵があると考えられます。路傍伝道のように道端で不特定多数に語りかけるということはしないで、ユダヤ人会堂の中で語り始めているからです。
・まず旧約聖書を知っている人々に対して、預言が実現したことを語り知らせることで、キリストの福音を告げ知らせようとしているのです。10章で登場したコルネリウスもそうでしたが、異邦人でありながら神を畏れる人々がユダヤ人の会堂に一定数いたのです。
・そのような人々を対象に語っているのです。そして間接的にでもローマの人々やギリシア人にも福音が伝わることが起こってくるのです。
・このように神の言葉を告げ知らせていく中で、二人の人物が登場します。一人は偽預言者バルイエス、一人は地方総督セルギウス・パウルスです。
・偽預言者で魔術師である人物が何をしていたかには触れられていませんが、地方総督と交際していたとあるのは、政治権力を持つ存在と親しくしていたことを伺わせます。
・彼が偽預言者として人々をだまし、利益を得ていたことの背景に地方総督と関係があったと考えられます。エリマとも呼ばれるこの魔術師は自分に有利な状況を整えていたわけです。そこに登場したバルナバとサウロは、神に遣わされた真実の預言者です。
・そして、地方総督に対して「賢明な人物」と言われていることは、信仰的な視点から理解すべきでしょう。神の教えに対しての賢明さを持っていたのです。だからこそ、バルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとしたのです。しかし、これに慌てたのが偽預言者であり魔術師であったエリマでした。
・何とかして、地方総督を神の言葉から遠ざけようと画策するのです。これについても具体的なことは語られていませんが、想像するに、地方総督に彼らが言っていることは嘘だとか、バルナバとサウロにお前たちの活動を認めるから、自分のことは放っておいてくれといった感じの提案をしたのではないかと思います。
・これを受け入れて妥協することがあったとしたら、彼らの働きが伝道の実を結ぶことはなかったことでしょう。現実を考えてみると、地方総督の協力を得られたならば、伝道活動に役立つことは間違いありません。
・けれども、9節でサウロからパウロと呼ばれ始める伝道者は決して道を踏み外すことはありません。彼は徹底して神の僕として働き始めたのです。

〇「パウロとして」
・サウロという名前はヘブライ人たちの間でサウル王からつけられる一般的な名前だったそうです。それは偉大な王にあやかるような名前で、「求める」という意味を持つ名前です。
・当時の人々は風習として、いくつかの呼び名があったようです。9節以降ではパウロと呼ばれるようになっていくのです。この名前は「小さい者」という意味です。
・この呼び名の変化は、彼の回心の表れだともいわれます。それは何かを求めて大成することではなく、神に仕える者として誰よりも小さい者であることを言い表していると考えられるからです。
・Ⅰコリ15.9では「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と言います。これは謙遜や自己卑下ということとは違います。
・自分が神に仕える者として、またその集まりの中でも、最も深い罪を持っていると理解しているからこその言葉です。むしろそのような罪人だからこそ、最も低いところで仕える覚悟を言い表しているのです。
・それは一貫して神の御言葉に忠実に生き、伝える働きを担う伝道者としての歩みを全うすることを宣言しているともいえます。実際パウロはこの後、福音を宣べ伝え、多くの地域で教会をたてていきます。
・けれどもそれは彼の人間的なすばらしさによって成し遂げられる働きではありません。これだけの功績を遺す人物ならば、人間的な魅力を合わせて持っていることが考えられます。
・実際にはそれとは程遠い人物だったようです。Ⅱコリ10.10には「わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。」と言われています。
・パウロが書いた手紙と本人の差に落胆しているような人々の姿に触れられています。おそらく失礼ながらパウロは外見的にパッとしない人物だったのでしょう。
・ルッキズムは良くないと言われますが、外見的な第一印象がその後の相手との関係に重要な意味を持つともいわれます。手紙を先に読んで、信仰的な良い導きを受けていた人々からすると、勝手に人物像を描いて、ある程度こんな人だろうという想像もあったとは思いますが、これほど直接的な落胆を口するのはあまり自分勝手で失礼ではないかと思います。
・また、Ⅱコリ12.7では「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」とあり、健康面でも不安があったことが分かります。
・パウロの人物像を追いかけることは本筋ではありませんが、人間的な欠けを多く持ちながらも、伝道者として用いられるパウロなのです。
・それがこのパウロとしての第一声にあらわれています。まず聖霊に満たされて言うのです。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」
・彼と手を組めばこの先の活動が楽になるかもしれないけれども、パウロは聖霊に満たされて神の正しさを突き付けるのです。ここにパウロの自己保身は全くありません。
・神から引き離そうとする悪魔の働きは、神の言葉によって退けられるのです。そして神の言葉はむなしい言葉としてではなく、現実に力を持つのです。ここでパウロは聖霊によって語ったキリストの言葉によって魔術師を見えなくさせることとなりました。これも一つの超自然的な見える結果です。
・ただパウロの言葉の最後には「時が来るまで日の光を見ないだろう」とあるところに、一縷の希望が残されています。悔い改めて求める時に回復が与えられるという希望です。
・これはパウロならではの希望として見えてきます。パウロ自身の回心の出来事を振り返ると、目がうろこのようなものに覆われて、アナニアによって再び目が開かれたことが回心の出来事となっていました。
・自分のキリストに対する罪深さを重々承知しているパウロです。それは、どのような者でも悔い改めて福音を信じるならば、救われ、用いられることを知っているということでもあります。
・ここにこそ様々な目に見える奇跡に勝る、神の救いの奇跡があります。最後には「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」ことが記されています。
・超自然的な出来事を目の当たりにしたことがきっかけではありますが、ここには、主の御言葉の正しさが示された結果があります。
・偽預言者を通して偽りの信仰と親しくしていた自分の姿を悔い改めた結果、キリストを信じる信仰へと導かれたのです。ここにもパウロの伝道旅行に対する備えがあったのです。
・地上に教会がたてられている理由と信仰者が何のために生きるのかが示されます。神の御言葉を伝えるために教会がたてられ、救いの御言葉を良き知らせとして伝える信仰者として生きるのです。そして、良き知らせを受け取る一人一人して生きていくのです。
・救いの御言葉は私達地上に生きるすべての者に向けて良き知らせとして届けられます。そして良き知らせと共に生きる人生は、地上の何物によっても獲ることができない特別な神の救いを恵みとして受け、祝福に満たされた豊かなものとなっていくのです。















私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく 慈しみを拒まれませんでした。
       詩編66編20節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)