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新型感染症関連
感染症予防対策の上、以下のとおりに集会を開催いたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
7月21日(木)10時半~

教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 
日 時 : 7月3日(日) 10時15分~
説教題: 「権威の所在」
聖書箇所 民数記16章1節-7節
     マルコによる福音書11章27節-33節
説教者:  阿部 啓牧師 

       2022年6月26日説教要旨
     マルコによる福音書11章12節-25節
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」
          マルコによる福音書11章15節より

〇「理不尽とさえ思われる言動」
・地上における最後の一週間をエルサレムで過ごされるイエスさまでした。その始まりであるエルサレムに入られる出来事が子ろばを用いて行われたことを示していたのが、直前の11章11節までの物語でした。
・しかし、イエスさま一行はずっとエルサレムで過ごしたわけではありませんでした。宿泊場所はエルサレムではなくべタニアであったことが、11節と12節から示されます。
・弟子たちも含めて、夜は敵対者がうごめいているエルサレムから離れて、べタニアで過ごされたのです。ちなみに、エルサレムとべタニアの距離は約3キロだと言われています。
・エルサレムという都会から離れて宿泊することを考えると、少々距離があるかとも思われますが、許容範囲内だと言えばそうかもしれません。
・本日の物語において見るべきは、その距離感そのものというよりも、移動距離と移動時間が存在していて、その道中での出来事が記されているということです。
・私たちはしばしば、自分の理解を深めるために具体的な数字や同じものに触れることを求めたりします。けれども目に見える部分にばかり思いが向いていくと、見るべき事柄を見失ってしまう過ちに陥ってしまう事があることも知っているはずです。
・特に聖書で語られる神の救いの出来事に関する記述は多岐にわたります。そして、私たちからすると矛盾としか映らないようなことも、理不尽だとしか思われないようなことも存在します。
・その一つが本日登場した「いちじくの木」に対するイエスさまの言動です。皆さんがこの物語を読んで抱く感情はどんなものでしょうか。色々あると思いますが、おそらくあまり良い感情ではないでしょう。
・感情的な怒りのみならず、呪いの言葉まで発せられるのですから、正直理解できないと言われても仕方ないような姿ですし、自分の無知を棚に上げて怒り散らしている、ワガママな権力者のようにさえ思えるのです。
・このいちじくの木の根元から枯れるという末路が20節以下に記されていますが、その間の15節-19節に神殿で商人を追い出し、彼らの商売道具をひっくり返されるイエスさまのお姿があります。
・そこで、このイエスさまのお姿と照らし合わせて読み進めていくときに、示されてくることがあると思うのです。
・このいちじくの木は「葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。」と言われています。
・遠目に見て、立派に葉を茂らせているのです。見た目はしっかりしているのです。けれども、季節外れということもあり、いちじくの実はなっていなかったのです。
・ここに含められている意味は、外見ばかりで中身が伴っていないものへの批判です。それは、この箇所においては15節以下の舞台となるエルサレム神殿への批判だと思われます。
・主の神殿であるにもかかわらずエレミヤ書8-10節にあったように「見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか」との言葉が現実のものとなってしまっているのです。
・空腹のため食べ物を求めるイエスさまのお姿には、この現実に対するイエスさまの求めが含まれているのではないでしょうか。
・空腹が満たされることは、喜びをもたらすものです。そして、空腹を満たす食べ物を求める私たちであることは言うまでもありません。
・イエスさまの空腹を満たそうといちじくを求められたお姿は、誰もが持つ基本的欲求のような求めがあること、そしてそれが私たちに本来のあるべき姿をもってイエスさまにお応えすることを求めておられることを意味していると思えるのです。
・それにもかかわらず、エルサレム神殿に代表される人々は、正しくお答えすることができず、勝手な姿をもって歩みを進めていってしまう愚かさを持っており、それを厳しく叱責されるイエスさまの裁きが示されるのです。

〇「宮清め」
・これを踏まえて15節以下に目を向けたいと思います。「宮清め」として広く知られている記事です。イエスさまによって清められなければならない姿を持っていたエルサレム神殿なのです。
・特に過越しの祭りはイスラエルの人々にとって最も重要な祭りだったことを考えると、この時期には多くの人々がエルサレム神殿を目指して集まってきていたことは間違いありません。
・人が集まることはそのまま商売のチャンスとなるわけです。しかも、過越しの祭りという最重要宗教行事のお祭りです。
・それならば、神を礼拝するために真摯に準備されていくことを想像したいのですが、実際にはそうではなかったようです。利益を求める商売人の存在が見え隠れします。
・「両替人の台や鳩を売る者」とありますが、両替も鳩も神殿で献げる献げ物です。しかし、その売り買いの中で不当に利益を追求する人々がいるのです。
・先ほど確認したエレミヤ書7.8-10の御言葉を思い返してみると、主なる神に頼らず異教の神により頼み、神の前にも人の前にも罪を犯しながら自分の思いの中で生き、それでもなお主の神殿に立ち主に呼びかけ、救われたと話す愚かな姿が明らかになっています。
・4節には「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」とありました。神の御前にあって二枚舌はあり得ないのです。
・バアルという異教の神に頼りながら、主なる神ヤハウェを賛美することはあり得ないのです。それは見せかけの信仰の姿であり、不誠実極まりないものであることは間違いありません。
・いちじくの木に対するイエスさまの厳しい言葉は、このような不信仰がまかり通っているエルサレム神殿に対する怒りと裁きだったのです。
・神殿は神を礼拝する場であるのに、それが利益をもたらす商売の場となり果ててしまっているならば、あるべき姿を見失っているのです。しかも、それが神との関係の破れの表れである以上、イエスさまは決して見逃されることはないのです。
・こういったお姿はもしかすると自分が思い描いていたイエス像と違うと思われるかもしれません。特に、いちじくの木への対応と合わせて見ると、なおのことイメージが混乱するかもしれません。
・けれども、そのイメージは私たちが勝手に作りあげているものではないでしょうか。愛や柔和ということから決して怒らないとイメージされている節があるのではないかと思います。
・またそうあって欲しいと思うのです。それは自分が厳しい言葉よりも優しい言葉を受けたいと願っていることの表れではないでしょうか。
・イエスさまの言動は一貫して神の救いの実現に向かっています。時に優しさを伴うような深い愛の姿をもって、時には恐ろしいほどの厳しい正しさをもって示すべき事柄を示そうとしてくださいます。
・それは私たち人間が神から離れた悲惨な状況に放置されることがないように、必至になっていてくださるからです。神はそのために御子を地上へと遣わしてくださいました。
・イエスさまが怒りをもって商売人の腰掛をひっくり返されているのは、単に彼らの商売を否定しておられるのではなく、神殿の在り方をはっきりとしようとされているのです。
・人の思いによってけがされた神殿を神の手に取り戻すための出来事がこの宮清めと言われる出来事なのです。
・神に対する不誠実を明らかにして、これを正すためにイエスさまは怒り、行動されるのです。
・この出来事は、人々の心を打ちます。これは人々を大いに驚かせる出来事だったからです。一方で人々がイエスさまの教えに惹かれていくのを恐れた祭司長や律法学者たちは「イエスをどのようにして殺そうかと謀った」のです。
・敵対者は主イエスを滅ぼすことを画策します。彼らの思いを達成するために。しかし、イエスさまは神の思いを達成するために神殿の商人たちを退けられたのです。

〇「イエスさまのなされたこと」
・さらに20節以下にはあのいちじくの木が根元から枯れていることに触れられます。ここにあるのは徹底した滅びです。
・敵対者がイエスさまを滅ぼそうとしていることを後目に、イエスさまのいちじくの木に対して行われたことによって、神から離れたエルサレム神殿の根底からの滅びが表わされます。
・人の思いによって支配される場所はその価値を失うのです。根元から枯れるように存在の根底から失われるのです。
・これは私たち教会と信仰者は常に心に留めておくべきことでしょう。自分の耳に良い言葉だけに耳を傾けるのでも、裁きの言葉ばかりに恐怖を覚えるのでもありません。
・いちじくの木の出来事も枯れたことで終わるのではありません。神を信じなさいと命じられます。不可能と思われることも可能である神を信じ、祈り求める歩みを命じられます。
・何よりも、赦しについて触れられていることを忘れてはなりません。
・赦しは自分が赦されなければならないものであること知らなければ求めることはありません。イエスさまは宮清めによって罪の現実を明らかにされました。この神殿で商売しているのは私自身です。あなたのことです。
・主なる神の神殿を自分の思いで満たしてしまう私たちだからです。しかし、このことに気付かされた時、私たちは赦しを求めていくのです。
・何も悪いことをしていないのに赦しを請う人はいません。そして、赦す権限を持たない相手に赦しを請うこともありません。
・神から離れて罪の中を歩んでいたことに気付かされた時、神への感謝と共に回心の出来事によって、それまでの自分の思いとは正反対の向きに回転させられるのです。
・赦しを求めて、神の祝福を受ける者として変わらなければならないのです。それは自分ではなく、神の方へと向き直らせていただき、神に救われた者として始める祝福に満ちた新しい命です。
・「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』」と言ってそれが実現することはあり得ないことです。荒唐無稽な出来事だと言ってもよいでしょう。それでも疑うことなくこれを信じる時、そのとおりになると言われます。
・しかし、それ以上に不可能だと思われることが、私たちが救われて信仰の道を歩むことではないでしょうか。私たちは神の前に何一つ相応しいと言えるものを持ち合わせていないからです。
・それでも、神は私たちのことを、あなたのことを諦めることはありません。あなたが信仰をもって神と共に生きるために、イエスさまを救い主として遣わしてくださっています。
・イエスさまは神から離れている私たちを神の元へと取り戻してくださるために、今この時も働いてくださっているのです。私たちが信仰をもって生きることはとてつもなく大きな奇跡の業なのです。
・イエスさまがしてくださった出来事は何一つたがわず、地上の教会が主の教会としてたつためであり、あなたが救われるための出来事なのです。










私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。








今週の聖句 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書11章28節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)