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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
6月20日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 6月16日(日) 10時15分~
説教題: 「悪意や分裂の中で」
聖書箇所  箴言24章1節-12節
      使徒言行録14章1節-7節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年6月9日
「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」
             使徒言行録13章48節より


〇「地上の集まり」
・私たちの教会の目的はどこにあるか、と問われれば、福音伝道にあります。それは神の救いとして示された良き知らせ、つまり福音を受け取り、伝える働きです。
・福音伝道と言われても教会の外ではなかなか通じない言葉かもしれません。そういった場合には布教活動と言い換えると何となく伝わるという経験もあります。
・言葉の印象の違いはあるかもしれませんが、キリストを宣べ伝えることが教会がたてられている目的なのは明白です。それ以外の所に思いを向けることは教会であることを放棄してしまうことになってしまいます。
・このことは、教会がイエスさまの福音に聞くことから離れて、自分たちの人間的な思いの実現ばかりを追いかけてしまうような姿に表れてくるものです。
・しかし、同時にそのような人間の思いに支配されてしまう誘惑に常にさらされている地上の教会です。それは人の集まりである以上いつも伴っている危険です。
・これは様々な形をもってあらわれる現実だといえるでしょう。本日の箇所でもその一端を見ることができます。それは私たちの誰もが持つ競争意識とか特権意識といえるようなものです。
・パウロとバルナバが語る福音を聞いて、次の安息日にも同じことを話してくれるように頼んだ人々の姿が42節に記されていました。これは明らかに喜んで耳を傾けている人々の姿です。
・けれども、同じ人々が本日の45節では「群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」とあります。
・まずここで確認できることは、ユダヤ人たちはキリストを信じたわけではなかったということでしょう。43節には「ついて来たと」あるだけで信じたとは言われていません。
・恐らく彼らは一時的に盛り上がって、パウロとバルナバが語ることを聞きたいと願ったのでしょう。しかしユダヤ人たちは、急激に熱が冷めるどころか、反対に回るという見事なまでの手のひら返しを見せるのです。
・その原因がどこにあるかと言えば、語られている内容に対する不満や不信ならばわからないではありませんが「群衆を見てひどくねたみ」と記されているところに原因があるのです。
・つまり自分たちのいつもの集会よりも多くの人が集まっていることが気に食わないのです。更には神の祝福が自分たちにだけ与えられている特権だと理解してるからです。
・神の祝福はユダヤ人である自分たちにのみ与えられていると信じて疑わないのです。むしろそれこそが彼らのアイデンティティーですから、決して曲げることなどできません。
・どうしようもない頑なさと、そこから生じる惨めさを覚えたユダヤ人たちだったのです。だからこそ、つい先日まで同じことを聞きたいと願うほどに感動を持って聞いていた人々の話に猛烈に反対するのです。
・人間的な感覚からすると、裏切られたといった感覚を持っているのかもしれませんが、それがいかに自分勝手なものであるかは言うまでもありませんし、神さまの祝福は決して限られた人々に対して与えられるものではありません。

〇「相手を限定しない福音」
・パウロとバルナバは頑ななユダヤ人を前に勇敢に語ります。ユダヤ人が力を持っている社会で、ユダヤ人に敵対することを語るには勇気が必要です。そういった社会状況では言いたいことも言えない状況に追いやられないとも限りません。
・しかし、異邦人伝道に用いられているパウロとバルナバです。ひるむことなく語るべきことを堂々と語るのです。それが反対するユダヤ人たちが神の祝福を拒否したということです。
・46節の言葉から示されることは、ユダヤ人に向けて福音が語られたのに、自ら拒んで、遠ざかってしまっている現実です。救いの道が示されているのに、滅びの道に留まることを選び取ったともいえます。
・そんな彼らをしり目に、パウロとバルナバは異邦人の方に行くと宣言します。これはユダヤ人からすると到底受け入れられないことです。
・自分たちこそ神の民であり、救いに相応しい者だと考えているからです。それに対して、旧約聖書の預言の言葉から神の救いのご計画を確認します。
・47節の二重鍵かっこ内の言葉は先ほどともに読みました。イザヤ書49章からの引用です。「島々」とか「遠い国々」とあり、さらに「わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」との6節の言葉を見ると、救いの広がりに触れられていることが分かります。
・キリストの福音に照らして、イザヤ書を見る時、「あなたの僕」と言われているのがイエス・キリストであることに気づかされます。この僕によって神の救いがもたらされるのです。
・けれども、ユダヤ人たちはキリストを拒みました。それは神の救いを拒んだことに他なりません。だからこそ、「あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」と宣言されてしまうのです。
・パウロとバルナバは更にイザヤ書の「あなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」との言葉の実現のために異邦人の方に向かっていくのです。
・これを聞いた異邦人は大いに喜び、賛美します。キリストの救いを拒むのとは正反対の態度です。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうとそれを求める者にとっては、キリストの福音は喜びをもたらす良き知らせなのです。
・元来この知らせをもたらす「国々の光」「異邦人の光」となるべき方はキリストを置いて他にはおられませんが、使徒言行録では、この解釈を広げ、キリストの福音を受けて遣わされた使徒たち、また信仰者すべてに向けられていると理解しています。
・ここにキリスト教会の働きの原型があります。救いのみ言葉を聞き、信じる者とされ、伝える働きへと遣わされていくのです。ただ、本日の箇所で注目すべきは48節の「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」ということです。

〇「定められた人に」
・福音を知らされたものがすべて信仰に入ったといわれているのではなく、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と言われているのです。
・ここに限定的な救いが見えてくるかもしれませんが、教会は神さまが定められた時に、信仰への道が拓かれると信じて教会は伝道の業に仕えているのです。
・ある人は、すべての人が信仰に招かれていると信じて伝道の業に仕えるように勧めています。目の前の人が神さまの救いに招かれていると信じて諦めてはならないとの励ましです。
・実際に私たちは伝道の働きを結果で捉えようとします。それを全く否定することはできませんし、多くの信仰者が与えられたならば、それは教会にとっての大きな喜びであることは間違いありません。しかし、数ばかりに囚われてしまうとみるべきところを見失ってしまいます。
・つまり、私たちは目に見える現実に重きを置くのではなく、主の定めがあると信じ、委ねて主のみ言葉を語り、証し続けるのです。教会は、人を集めるために耳触りの良い言葉ばかりを語るのではないということです。集客目的のイベントを開催するわけでもありません。
・何よりも礼拝において、神のみ言葉を聞くことをもって証しとするのです。教会が教会たるのは、聖書を神のみ言葉として聞くからです。時に、耳に痛い言葉かもしれません。時代遅れだといわれることもあるかもしれません。けれども、神の救いのみ言葉は時代を問わずに一貫しています。
・当たり前のことや古いことを疑う向きがある今の時代ですが、普遍的なものはあくまで不変なのです。神の救いは私たちの状況によって変わるような不確かなものではありません。
・神の定めの中で確かな救いの道が備えられるのです。私たち地上の教会と信仰者は、この招きにあずかったことを喜び、感謝し、伝える存在として生きています。
・それは裏を返せば、神の定めの中にある者は、どのような状況に置かれたとしても必ず救いの道に導かれるということです。たとえ、あなたの隣人が頑なに拒んでいたとしても、諦めずに語り続けるのです。
・確かに、結果が得られないと落胆します。失望することもあるでしょう。けれどもあなた自身が諦めたとしても、神さまは決して諦められることはありません。
・神の定めがあることを知るとき、神さま御自身が一人一人を救うことを決して諦めることのない方であることが示されるのです。自分の働きが用いられていないと思われるような時でも、神さまの救いの御業は確かに進められていきます。
・私たちが落胆したり、失望したりするのは、私たちの限られた時間の中で様々なことを思い巡らし、結果を求めるからではないでしょうか。神さまの定められた時に思いを向ける時、それがいかに小さな思いであるかを思わされるのです。
・私たちの時間と神さまの時間は全く違います。けれども、救いに導くという定めは確かにあるのです。その時がいつどのように起こるのかは誰も分かりませんが、神はイエス・キリストによって救いの道を確かに示してくださいました。
・私たちは十字架と復活の出来事によって示された救いの出来事に希望をもって伝道の業に仕えていきます。それは、神の救いが過去の出来事として起こったというのではなく、今のあなたを生かす力あるものだという事実から与えられる希望です。
・あなたに与えられた信仰があなたの隣人に与えられないということがあり得ましょうか。自分が信仰に導かれたことがいかに驚くべき出来事であったかということを思う時、それと同じことが他の人にも起こらないわけがありません。
・もしかすると自分に与えられた信仰の喜びや、自分の身に起こった劇的な出来事ゆえに、これは自分だけに起こった特別な出来事だと理解することもあるかもしれません。
・そうなると、これは他の人には起こりえない特別な出来事だと思いたくなる気持ちもよく分かります。けれども、それでは本日のユダヤ人たちと何も変わりません。
・場合によっては、他の人には起こり得ないことだと福音を伝えることを諦めてしまうことになりかねません。しかしそれでは、神の選びを自分だけのものとしてしまうことになってしまいます。
・神の選びは誰にいつ向けられているかは分かりません。しかし、目の前の人がその定めにあると信じ、戸を叩き続けるのです。少なくとも神の選びに定められていなければ、救いに招かれることがないことを知らされた私たちです。
・神の救いの喜びを自分の中だけに収めておくのではなく、少しでも広く伝える器として用いられるように祈りをもって仕えていくのです。
・あなた自身が救われている者として、家族や友人、同僚など身近にいる人々が主によって定められていると信じ、信仰に導かれることを真剣に祈ることを諦めないでください。
・いまだ信仰を持たずに過ごしている人々も、自分には無関係だと思われることがあるかもしれません。しかし、時が訪れたならば必ず信仰への道は拓かれます。
・時に強引とも思えるような出来事を通して示される導きもあります。日々の生活の中で何気なく示されることもあるでしょう。その形は様々ですが、神さまの定めは必ず実現します。
・この信仰の思いが教会の伝道の原動力です。主なる神の定めに委ねる時、私たちの伝道は折が良くても悪くても倦むことなく先に進めていくことができるのです。
・私たちの只中に神の定めがあることを確信し、喜びと感謝をもって歩んでまいりましょう。









私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書11章28節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)