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新型感染症関連
感染症予防対策の上、以下のとおりに集会を開催いたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
4月20日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

レント第五主日礼拝 
日 時 : 3月27日(日) 10時15分~
説教題: 「派遣と宣教」
聖書箇所 エゼキエル書2章3節-4節
     マルコによる福音書16章19節-20節
説教者:  阿部 啓 牧師

         2023年3月5日
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
        マルコによる福音書16章15節より


○「弟子たちの現実」
・十一人の弟子たちは日常生活を送っています。彼らが食事する姿は日常生活そのものです。彼らは直前に主イエスを失いました。それだけにとどまらず、復活の主イエスのことを知らされつつも、それを受け入れることができなかったことが9節以下で繰り返し語られます。
・なぜ彼らが信じなかったのかの理由は明らかではありません。それでも私たちに示されてくるのは、彼らが神の救いの御業を信じることができなかったということです。
・更に復活の出来事を信じなかった彼らですが、食事を共にしていることから明らかに日常生活を続けているのです。何の変哲もない日常を生きているのです。
・人間の現実を見れば、どんなに劇的な出来事があろうとなかろうと時は過ぎていくと言えるかもしれません。どれだけ悲しくても、どれだけ嬉しくても生活は先に続いていくのです。
・十字架に至るまでの出来事を経験し、目撃し、復活の出来事を知らされた中で、普段と変わらない食事の光景が繰り広げられているのです。
・「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と言われているのもこのことを表わしているのではないでしょうか。
・少しでも復活の出来事を心に留めているならば、それを確認するための言動があって然るべきです。けれども、彼らは普段と変わらぬ生活を送っているのです。だからこそ何も感じていないかのような不信仰の姿を主イエスに咎められるのです。
・この咎めるということは、かなり強く厳しい非難を言い表す言葉として用いられるものです。たしなめる程度のものではありません。
・復活の主との出会いを信じなかったことが、どれほど主イエスによって咎められなければならない重大な事柄であるかが示されます。これを信じないでどうするのだと責めておられるのです。
・仕事を捨て、家族を残してまで主イエスに従った弟子たちでした。主イエスとの関係ということだけを見れば、私たちの誰一人として到底かなわない姿をもって主イエスに従った彼らでした。
・けれども彼らは、私たちと同じ人間です。ただ従うのみならず、従うことができない罪の姿を明らかにするのです。生活のすべてを献げるほどの姿をもって従っているにもかかわらず、復活の主を信じない不信仰の極みともいえる姿を表すのです。
・このような不信仰の姿は主イエスによって咎められるべき出来事です。決して褒められるべきではない罪の姿であることは言うまでもありません。
・しかし、このような人間の罪の現実すらも用いて下さる主イエスの救い主としてのお姿があるのも事実なのです。

〇「咎められた先に」
・主イエスの地上での歩みのすべては、神の救いの御業が行われるためのものでした。この一点に尽きることは繰り返し確認されなければなりません。神の御業がなされるためであり、人の要求や欲望が満たされるためではありません。
・結果として助けや癒しが与えられることはありますが、それはその時神が必要とされたことが行われた結果です。神が必要とされたことは必要な形で私たちの只中で行われるのです。
・しかし、神の御業を拒否するような無感覚を表わす私たちです。十一人の弟子たちが復活された主イエスを信じなかったことも間違いなく神の御業を拒否する一つの姿です。
・けれども、ここに現れてくださる主イエスがおられるのです。主イエスは神の救いそのものです。そして神の救いは福音として語り、示されます。
・イエス・キリストは福音そのものです。神の救いの御言葉そのものだからです。そして、福音は良き知らせと言い換えられることがあります。万人にとって良い知らせとして響き渡るのです。
・けれども私たちは良い知らせという表現から福音のことを耳当たりの良い言葉だと思い込んではいないでしょうか。
・福音は神の救いの到来を告げ知らせます。それは場合によっては私たちにとって受け入れ難い現実とともに訪れることもあるかもしれません。嬉しさや幸せと思えるような姿ばかりではないのです。
・私たちは福音という言葉の響きから自分にとって喜ばしく、進んで受取りたいと思うような事柄を思い描くのではないでしょうか。確かにそういった姿もあることでしょう。けれどもそれだけではないことが、本日の十一人の弟子たちと主イエスとの姿から示されてくるのです。
・十一人の弟子たちは明らかに叱責を受けているのです。咎められているのです。不信仰の現実を突き付けられているのです。しかし、今すぐ逃げ出して、隠れたいと思っても仕方ないような状況で彼らは、主イエスと共に置かれているのです。
・弟子たちの不信仰の姿だけでなく、主イエスがここにいてくださるということだけで、ここに福音があると断言できます。不信仰を突き付けられる現実にあっても、主イエスが出会ってくださっているからです。
・どれだけの厳しい現実があろうと、隠したいような罪の現実をもっていようとも、そこに主イエスがいてくださることの方が何にも増して重要なのです。
・人のあらゆる罪を覆うための救い主として来て下さった御方が共にいてくださるからです。ここに福音の実現があります。たとえ不信仰を突き付けられたとしても、主イエスが共にいてくださる弟子たちは福音に触れているのです。
・むしろ自分たちが思いもしない形で罪の現実を知らされ、更に福音が突き付けられているのです。信じなかったと言われるほどに復活の主への拒否を繰り返した弟子たちに対しても、救いの約束を確かに示してくださったのです。
・主イエスは時に大変厳しい姿をもって弟子たちに、そして私たち人間に向き合われます。けれども、最後のところでは、必ず救いを示してくださるのです。私たちが真剣に主に向き直ることを求め、悔い改めを求めて信仰と共に歩み始めるならば、必ず福音が文字通り喜びの知らせとして響き渡るのです。

〇「全世界に行って」
・そして主イエスはここで唐突とも思われる形で「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と命じられます。
・福音を知らされた者は、信仰の喜びを自分の中にとどめておくだけではないのです。信仰は私たち一人一人を生かすのみならずすべての人に向けられた神の救いを明らかにするのです。
・主の救いの御業は誰に対しても確かな力を持っています。このようなことを聞かされると、自分にはそうでもないと思われることも少なくありません。
・他の人はそうかもしれないけれども、今の自分とは直接には関係ないと思われたりもするものです。そういった思いを打ち消す例を挙げればキリがありません。
・おそらく多くの信仰者がそのような経験を経て、信仰へと導かれていると思いますし、人の思いは思いもしない形で打ち砕かれるものです。
・使徒9章にあるあのパウロの回心の出来事を振り返っても同じことがいえるでしょう。キリスト者を迫害して回っていた自分がキリストに仕えるとは全く思っていなかったことでしょう。
・パウロほどの劇的な出来事を誰もが経験するわけではありませんが、主に仕える召命の出来事は、人生の方向を回転させる力を持つものだということははっきりということができます。
・そして、それは誰にでも起こりえるということです。それぞれに対して働きかけてくださる神さまです。私たちの思いもしない形で働きかけて用いられます。
・そういった働きの積み重ねで、今の私たち豊橋中部教会の働きが始められてきたのです。イエスさまの「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」との命令が今も効力をもって語り続けられています。
・この御言葉によって立てられた教会であることは大きな希望です。人の思いによってではなく、福音によって神の救いを証言する群れとして立てられています。

〇「救いと滅びの宣告」
・そして主イエスはさらに「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」とも言われています。
・神を信じて洗礼を受けることは不可欠なことです。そして、信仰と共に生きる者は救いにあずかる者とされるのです。ただ洗礼をうけさえすれば万事問題ないといえるかと言えばそうではありません。
・もしそうならば、洗礼が魔術的なものとなってしまいます。洗礼さえ受ければ、神に救われると勘違いしてしまうのです。
・洗礼を受けることがゴールではありません。洗礼を受けて神を信じる者として信仰の歩みを自覚的に歩んでいくのです。神の救いの恵みに応える者として歩み始めるのです。
・そういった意味では、洗礼はスタートです。本当に救われた者として地上での歩みを天国に結びつけられて歩み始めていくのです。
・一方で信じない者に対する滅びの宣告は恐怖を呼び起こすようなものかもしれません。それでも聖書は、はっきりと「信じない者は滅びの宣告を受ける」と語ります。
・しかし、これは恐怖をちらつかせて脅すような言葉とは違います。確かに滅びに定められることは恐れるべき事柄ではありますが、私たちはこの滅びの定めを十字架の死によってすべて引き受けてくださったイエスさまのお姿を知らされています。
・だからこそ、救い主であるイエスさまの福音を知らされ、信仰の道を歩んでいくのです。しかし、この福音を知らされながらも拒否し続けるならば、救いを得られないのは当たり前のことではないでしょうか。
・私たちは主イエスが示してくださった福音をあってもなくてもよいようなものとして受け止め、語り伝えているわけではありません。入り口や接点としてはあり得るかもしれませんが、趣味や文化の一つとして持っているのでもありません。
・福音を聞いて信じて受け入れるか、受け入れないかの二者択一を求めているのです。それでも神さまは誰一人として、福音を受け入れないままでいることを望んではおられないことは間違いありません。
・イエスさまの十字架は全ての人に向けられた救いの出来事だからです。つまり神さまは全ての人が救われるためにこの出来事を行なってくださったのです。
・神の救いがすべての人に向けられているのです。それをどう受け取るかが問われているのです。信じるか否かが問われているのです。
・神さまはあなたを救われるべき者として選んでいてくださっています。その神さまの選びに応える者とされることを切に求め続けていてくださいます。
・また、本日の箇所では信じる者のしるしとして「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」と語られます。
・しかし、このような現実を経験することはほとんどないのが今の私たちです。また、このような出来事をそのままに求めることが私たちの信仰の応答としてあるべき姿かと言えばそうではありません。
・これは神を信じることで超越した力が得られるということとは違うからです。神を信じる者は神が必要とされた道を歩むこと者とされるのです。
・私たちの思いからではなく、神の御心によって示される道を行くのです。必要であれば、神さまはどんなことでも行なわれます。
・私たちが全能の神として信じる御方です。神にできないことは何一つないとの信仰を持っている私たちです。
・はっきりと言えるのは、私たちに信仰が与えられ、教会がたてられていること、これらが私たちが目の当たりにする神の奇跡の御業です。あなたが信仰者として生きていること、教会が教会として立ち続けていること、ここに神の御業が現れています。
・従う私たちがどのような者であったとしても、変わらず、道を開拓し、示し続けてくださる方がおられるのです。
・神の恵みは私たちの応答から始まるのではなく、神から出ているものを私たちが感謝をもって受け取るものです。そしてこの豊かな恵みを宣べ伝える信仰者、教会として共に歩みを進めていくのです。
・滅びに対する恐怖に目を向けるためではなく、神の救いの恵みの喜びを携え、生きるために主イエスは私たちを咎め、悔い改めを示し、救いの道を確かに歩むことができるように、聖霊によって今も信仰の道を共に歩んでくださいます。











私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12章24節より

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牧師 阿部 啓(あきら)