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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
2月20日(木)10時半~



教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 主日礼拝
日 時 : 1月26日(日) 10時15分~
説教題: 「秩序と混乱」
聖書箇所 出エジプト記32章1節ー6節
     使徒言行録19章28節ー40節
説教者:  阿部 啓牧師



         2025年1月19日
「諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。」
             使徒言行録19章26節より


聖 書   エレミヤ書10章12節ー16節
      使徒言行録19章21節ー27節

○「波の影響」
・エフェソの町ではパウロが語ったキリストの福音を聞いて大勢の人が信仰に入り、更に魔術を行っていた多くの者も、銀貨五万枚に相当する書物を焼き捨てて、悔い改めを示しました。
・このような姿から20節には「主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」と語られていました。そのような記述を見ると、パウロが伝道することによって多くの信仰者が獲得されたと読み取ることができそうなのです。
・確かにこの良い結果が与えられたパウロはこの先の目標を立てました。マケドニア州、アカイア州からエルサレム経由でローマに向かうという決意です。エフェソでの結果に励まされて、異邦人に向けてキリストを宣べ伝える思いを強くしたのではないかと思われます。
・この決意の後、ローマに向かうまでの間に書かれたのがローマの信徒への手紙だといわれています。また行ったことのないローマの人々に向けて、福音を告げ知らせたいとの挨拶からローマの信徒への手紙が始まっていることからもその願いの強さが伺えます。
・エフェソで多くの人々を与えられたことで力を得たパウロが意気揚々とローマに向かおうとしているかのようにも思えるのですが、パウロはそれほど楽観的な人物ではありません。大胆さを持ちながら慎重な人だったと思われます。本日の箇所において、新たな旅の目的が示されながらも、自分よりも先に、テモテとエラストの二人を行かせます。
・自分が行く前に様々な準備をしてもらうためだったと思われます。それだけ行く先の準備をしてから旅立つのです。旅の準備は弟子たちに任せて自分は語るべき福音のために仕えることを優先するのです。
・ただ先ほどの20節の言葉をよく見ると、信仰者が与えられたとは記されていないことに気づきます。多くの信仰者が与えられた結果に焦点を当てようとしているだけではないのです。
・本日の物語に繋がると考えると、主の言葉である福音はものすごい勢いで広がりも見せた事実があることを確認すべきでしょう。しかし、その広がり方は単純に受け入れる人々が急激に増えていったことだけを指すのではないのです。
・主の言葉を受け入れ信じる人々が与えられるのと同時に、これに強烈な拒否感を示す人々も生じたからです。いうなれば、好意的に受け入れる人も否定的に受け止める人も含めて、すべての人が福音の波に飲み込まれているといった感じでしょうか。
・穏やかな水面に石を投げこむと波紋が広がります。その石が大きいほど波紋の広がりや強さも大きくなります。エフェソの町に投げ込まれた福音という石はこれ以上ないほどの広がりと強さをもって波を生じさせたのです。
・いやエフェソのみならず、福音が語られるすべての所でも言えることです。日本においても明治期から本格的にプロテスタント教会の伝道が始められました。そして劇的な信仰者の増加がみられた時期が続きましたが、一方でキリスト教排斥運動も広がりを見せ、伝道の妨げとなった現実が私たちの歴史の中にあります。
・エフェソの教会でも同じように、信仰に導かれる人々と敵意をもって向かってくる人々がいたのです。それでも、そこに生きる人々に影響力を持った福音の言葉でした。簡単に聞き流すことができないほどの力をもって人々の間に響き始め、変化をもたらしつつあったのです。

〇「何を守るか」
・その変化は生活環境の変化につながるものでした。先の魔術を行っていた多くの者は、その商売道具であった高価な書物を焼き捨てました。これは魔術よりも主の言葉の確かさに生きる覚悟の表れです。
・信仰に入った大勢の人々が自分の悪行をはっきり告白したのも同じです。それまでの自分ではなく、福音によって生きる新しい自分となるために過去の出来事を告白し、思い新たに生き始めるためです。
・このような人々に変化を与えるほど、地上の様々な力をはるかに超える主のみ言葉の力があることが示されるのです。私たちは信仰の事柄について考える時どれほどの思いを持っているでしょうか。
・教会外の人々からすると趣味の一つのように考えられている節があります。好きで信じているのだから、好きでスポーツや音楽しているのと大差ないではないかといった感じです。そうなると信仰は自分の事柄だけにとどまってしまい、自分の状況や思いの変化で離れてしまいます。
・残念ながら教会外だけではなく、信仰者として歩んでいる私たちの中にもそういった思いが混在してしまっているような状況があります。誰か特定の人を指しているわけではありません。むしろそのような姿こそが神さまの前における罪の現実の一つです。
・そして、そのような思いを抱かせ、誘惑する存在こそが、私たちを神さまから遠ざけようとする悪魔の働きです。これは常に自らに言い聞かせなければならないことです。そしてその根底には、福音から離れていては、まことの命を生きることができないという命の在り方があります。
・福音によってはじめて私たちは地上の命を満足に生きることができるのです。主のみ言葉から離れて生きるのはみじめで悲惨な人生に他なりません。主の祝福によってはじめて私たちは生きる者とされるのです。
・したがって信仰は趣味の一つではなく、命の根幹を確かにする命そのものです。あなたの存在を確かにしてくださる神さまからの特別な祝福の恵みです。その波が訪れた時に、命に至る波に乗るか、死の滅びに向かって溺れてしまうのかが問われているのではないでしょうか。
・これは私たちが本当に守るべきものは何かとの問いに繋がります。信仰を守る人は自分の命を、自分自身の存在を守るのです。けれども、エフェソの町で敵意をもって向かってきた人々はそうではありませんでした。
・彼らが守ろうとしたのは、自分たちの利益でした。確かに生活の糧を守ることは生きるために大切なことです。私たちは皆、生きるための経済的基盤を持っています。しかし、それと信仰とを天秤にかけた時にどちらかを優先すべきか。答えは言うまでもありません。
・言い方は悪いかもしれませんが、利益を得る方法はこの世界にいくらでもあります。しかし、命の根底を守る存在は福音以外にはないのです。神を神として生きる道は他にはないのです。
・このことに気づくことができないと、人は地上の事柄を優先してしまうのです。24節では「デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた」とあり、さらに25節には「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが」と続きます。
・つまりアルテミス神殿の模型を売ることで生活の糧をえている人々が一定数いたことが分かります。彼らが真っ先に気にしているのが自分たちの儲けだったのです。確かに神殿にかかわるということで、信仰的な問題のように見えないこともありませんが、それは二の次で一番は自分たちの儲けの手段でした。
・このような姿は既に見た気もいたします。それは16.16以下にあるフィリピでの出来事です。
・占いの霊に取りつかれていた女奴隷から霊を追い出した際に、儲けの手段がなくなったことで女奴隷の主人から逆恨みされ、町を混乱させているという理由で訴えられ、投獄されたという出来事でした。
・本日の箇所でも同じように、アルテミス神殿の模型の銀細工で儲けていた人々は、パウロが語ることによって偶像礼拝が否定されると、間違いなくもうけの手段がなくなると直感したのです。
・また、神殿の模型だけでなく、神殿内の様々な像を作っていたことも考えられるので、偶像礼拝の否定によって、自分たちの仕事が奪われることになるのは間違いありませんでした。
・つまり彼らは自分たちの利益を守ることを一番に考えて、自分の存在にかかわることに目を向けることはなかったのです。いや、彼らにとってはアルテミス神殿が聖なる場所とされ続けることで、生きることができると考えたとしても何の不思議もありません。
・彼らの偶像礼拝はそのまま彼らの生活の糧として理解できます。そうなると、「手で造ったものなどは神ではない」とのパウロの主張は到底受け入れられなかったのです。ただ、それはどう見ても、自分の生活のための神理解に過ぎません。文字通り、利益を求めての信仰理解です。銀細工職人たちの言い分はまさに私たちを取り巻く現状そのものだといっても良いのではないでしょうか。
・そこで明確にお伝えすべきことは、地上の事柄を一番に求め、守るのではなく、地上の事柄に先立つ神の事柄を一番に求め、守るべきだということです。それは、神のことを守ることが自分を守ることと信じるからです。
・パウロの伝道旅行は様々な姿を持っていますが、一貫して示されるのは主なる神さまの守りと導きです。主なる神さまのために生きることは自分のために生きることになるのです。
・神さまは決して悪いようにされません。これを信じている信仰者は人の手で造ったものを崇めたり、助けを求めたりすることはしないのです。占いや偶像に頼ってはならないというよりも、頼ることに意味がないことを知らされているのです。無意味なものを持っていても仕方がありません。
・それでもすぐに変わることはできない場合もあるでしょうし、真っ向から敵対して摩擦を引き起こす必要もないかもしれません。今回の結末も白黒はっきりしたものとはならないことがこの先に記されています。
・このような社会の中にあって、少なくとも私たちは自分が信仰者として生きる道が与えられていることを感謝し、福音を証しする者とされているのです。主なる神を礼拝し、キリストの福音に聞き従い、聖霊の御力を祈り求めながら証人として生きるのです。

〇「信仰者として生きるために」
・教会の歴史の中には様々な形で悔い改めに導かれ、信仰の歩みを始めた人々がいます。有名な古代教父にアウグスティヌスという人がいますが、彼は神から離れ、肉欲にまみれた生活の中で、マニ教に傾倒していたのですが、母モニカの信仰的な助けと祈りによって回心し、洗礼を受けて偉大な教父の一人となっていきました。
・賛美歌アメージンググレースの作者であるジョン・ニュートンも奴隷商人から牧師になった人物ですが、彼の有名なエピソードは船が嵐にあって難破しそうになった時に、幼い時に亡くなった熱心な信仰者だった母を思い起こし神に祈り、奇跡的に助かって、後に牧師になったということです。
・ただ、彼の場合は助かった出来事の直後に牧師になったわけではありません。約10年の時を経て牧師になっています。その間も良くないとどこかで思っていたかもしれませんが、奴隷商人を続けていました。というのも後に彼は奴隷貿易反対運動にかかわることになるからです。
・それでも生活の糧を得るためか、現状をすぐに変えることができなかったためか、すぐに仕事を辞めて神に仕える道に進んだわけではなかったのです。自分が置かれている状況で信仰が深められて、導きが与えられたとみて差し支えないでしょう。
・私たちは劇的な変化を求めるかもしれません。そして劇的な変化を経験する方もおられるでしょう。同時に大きな変化なしに信仰生活を送っている方もおられます。つまり個人的な経験が重要ではなく、福音を信じ、受け入れる信仰の応答が重要なのです。
・まず、神を信じ、そこから与えられる生活を生きていくのです。そこで与えられる道は人それぞれです。すぐに大きな出来事があるかもしれませんし、長い時間を経て与えられる出来事もあるかもしれません。
・それでも主なる神さまを礼拝する生活を一番とすることで、神さまの事柄から始め、自らの事柄を生きる信仰の応答の人生を歩ませていただくのです。少なくとも神さまを自分の生活の糧を満たすものとするような思い違いを退けて、福音に聞き従う道を歩んでいくのです。
・波紋のように広がる福音はそこに生きる全ての者に働きかけます。そしてこの波紋は消えることがなく、常に広がり続けています。中心にキリストの福音が投げ込まれ、それを受けた者がさらに広がりを与えます。
・そのような広がりをもって、今私たちにも届いてきているのです。しかし、中心にいてくださるキリストのお働きは、今も止まっていません。どのような時にも変わらず働き続けてくださり、私たちに向けて波を送り、心を揺り動かされます。
・人の手で造ったものはこの波の妨げとなり、この世界を濁らせるようなことになってしまいます。動きのない水は腐ってしまいます。神の霊は常に私たちに働きかけてくださり、命を保ってくださいます。
・動かない像ではなく、生きて働いてくださる神として、私たちに清い水を常に整え、生きるべき命を確かに示してくださいます。
・主が共にいてくださる信仰をもって生きることは、決して一つ所にとどまって生きるのではなく、主が共にいてくださる喜びと希望をもって生き生きと生きるエネルギッシュな姿を持っていると、パウロを通して思わされるのです。
・実は先ほど少し名前を出したアウグスティヌスもパウロの姿に大きな感銘を受けたそうです。主によって生きる喜びは、それこそ波紋のように広がります。そして、あなたがキリストから受けた喜びをさらに広げる起点となることができれば、どれほど幸いでしょうか。
・主はそのためにあなたを呼び出し、遣わしてくださいます。そしてその道にたとえ苦難があったとしても、主が良いように用いてくださる確信が与えられていることに感謝しつつ、共に歩みを進めていきましょう。




私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。


今週の聖句 
神わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた
ヨハネによる福音書1章16節より

教会全景

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玄関ホール
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牧師 阿部 啓(あきら)