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新型感染症関連
感染症予防対策の上、以下のとおりに集会を開催いたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
8月末まで家庭祈祷とし、教会での集会は休会となります。
〇教会学校
日曜午前9時~


伝道開始126周年記念礼拝
①9月11日
「鏡のように映し出す」
阿部啓牧師

②9月18日
「キリストが形づくられるまで」
北陸学院院長
      楠本史郎牧師

礼拝後、講演会
 「福音を受け継ぐ」

〇バイブルカフェ
9月20日(木)10時半~

教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 
日 時 : 8月21 日(日) 10時15分~
説教題: 「見せかけに対する裁き」
聖書箇所 出エジプト記28章39節-43節
     マルコによる福音書12章38節-40節
説教者:  阿部 啓牧師 

       2022年8月7日説教要旨
「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」
             マルコによる福音書12章37節


〇「権力や血筋に惑わされやすい私たち」
・洋の東西を問わず、歴史に名を残した人物の子孫は注目されることが多いようです。家によってはそれを誇りとして、家名を守ることを何よりも大切にするといったこともあるのではないかと思います。
・形はどうあれ、本人の現状と関係なく立場が判断されたり、身の丈に合わないことを経験したりすることがあるのです。
・本人と関係なく「~像」が作りあげられ、それに当てはまらないと期待外れだとされてしまうことは、私たちの社会ではしばしばあるのではないでしょうか。
・それくらい私たちは、経歴や肩書、また血筋や家柄といったものに惑わされてしまう傾向にあるのではないかと思いますし、それを利用することも少なくないと思うのです。
・自分たちの正統性を示そうと、肩書のある人々を取り込むことを画策するのは常套手段かもしれません。またそれを真に受けてしまったり、惑わされたりする現実が噴出してきています。
・それらのことは、地上の事柄がどれほど私たちを支配しているかの表れだともいえるのではないでしょうか。そして、そこに期待や利害が絡むとますます思いが強くなってくるのです。
・国として苦難にあえいでいるイスラエルの人々から、ダビデの子と称され、キリストつまり、救い主として大きな期待をもって迎えられているイエスさまに対してはなおのことでしょう。
・彼らは自分たちの状況が改善することを切望しているのです。そのための救い主の到来を信じて疑わないのです。

○「ダビデの子」
・そもそも「ダビデの子」と呼ばれることにどのような意味があるのでしょうか?歴史的偉人の子孫だと聞いて、驚きを覚えるのとは訳が違います。
・単なる血筋の事だけでイスラエルの人々は「ダビデの子」と呼ぶのではないからです。確かに人間的な意味ではダビデの子孫であるヨセフを父として持つのがナザレのイエスです。
・しかし、それ以上の意味を持っています。それは、ダビデの子孫ということだけではなく、ダビデに似た者という意味を持つのが「ダビデの子」だからです。
・つまり「ダビデの子」と口にするのは、イスラエルの誰もが英雄視し、理想の王であり、力強い比肩する者のいないダビデ王の再来を熱望し、その力によって国が再建されることを切望していることを意味するのです。
・また自分たちの目の前にある苦しみ、病の癒しなどを求めた人々でした。
・そのような求めに対して様々な奇跡を行われたイエスさまでしたが、奇跡を行われた後で、そのことを誰にも話さないように命じられました。
・イエスさまは御自身がダビデの子であると理解されることをよしとはされません。奇跡の後の沈黙命令もそうだと言えますし、本日の箇所でも、「どうしてメシアがダビデの子なのか」問い質しているほどです。
・イエスさまに対する人々の理解が的外れだと指摘されているのも同じです。確かに、家系としてはダビデの子孫としてお生まれになったけれども、それは、ダビデの子孫として、偉大な先祖の力や名声にあやかるような存在という事ではありません。
・確かにダビデは、神の祝福の内に歴史的な支配者として、理想的な王として用いられたと言えるでしょう。時間も場所もはるか遠く離れている私たちにさえもその名声が届いているくらいです。けれども、彼の子孫として、彼の下につながる者としてイエスさまがおられるわけではないのです。

○「ダビデの主」
・詩編110編の1節の御言葉は新約聖書でいくつか引用される箇所です。この詩編110編との関係から三つのことに注目したいと思います。
・一つ目は「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。」ということです。詩編の言葉にはない、イエスさまの理解に基づいた言葉です。
・「わが主に賜った主の御言葉」と言われている以上、これは主なる神の御言葉として語り示されているものです。私たち人間が神の御言葉に聞こうとするとき、聖霊の導きがなければなりません。
・自分勝手な思いを神の御言葉に転化してしまうようなことがあってはならないからです。また、旧約聖書において、主の御言葉が示される際には、それを受ける者が神の霊に満たされていることは、基本的なこととして見ることができます。
・特に王として立つ者に対しては神の霊の賜物があります。イザヤ書11.2,3(p1078)をみると「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」とあります。
・ダビデはこのように主の霊に満たされた能力を生かして王としての働きに仕えたからこそ、偉大な王とされ、他に類を見ないほどの繁栄を与えられたのです。
・従って詩編で語られるダビデの詩は、自分の思いを表現している言葉としてではなく、主の霊に導かれて語った言葉として聞かれるものです。
・二つ目の事として「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と言われている内容です。
・ここには天に挙げられ、神の右の座に着かれるキリストと、すべてを従える真の支配者、王としてのキリストの姿が示されます。
・ダビデは「自分はイスラエルの王として国の繁栄が与えられ、そのことをとおして神の御栄光を表すことができたかもしれない。しかし、それは、この時代、この場所においてだけです。それよりもあなたが語ってくださった私の主に対する御言葉は、あなたのご栄光と圧倒的な力が地上のすべてにおいて表れるためのものです。そのような御言葉を与えられたことに感謝します。」そんな思いに満たされて語ったのではないでしょうか。
・特に右の座というのは、側近であり、有力者の場所です。また、右手と言われる場合には権威、力、祝福などを意味します。
・神の力そのままにすべてを支配する存在としてのメシアが語り示されているのです。ダビデにとってこれほど光栄なことはなかったことでしょう。
・このダビデの言葉は黙っておく必要はないものです。その素晴らしさをはっきりと語り示すために与えられた主の御言葉でした。
・メシアが天に挙げられ、まことの王として支配される方であることを明らかにするのです。
・そして、三つ目の事として「主は、わたしの主にお告げになった」ことがあります。ここに明らかな上下関係があります。「主」と訳される言葉は、神に対する主、キリストという意味はもちろんですが、もともと主権者、王という意味を持ちます。
・ダビデが「わたしの主」と言う時、それは、神に対する言葉であると同時に、彼の上に立つ存在、王であるダビデの上に立つ王の存在が見えてくるのです。
・本来であれば、王の上に立つ王というのも変な話なのですが、ダビデは自分の上におられる方をはっきりと見つめているのです。しかもその存在は今目の前にいるものとしてではなく、これから来られる方として示されているのです。
・王の上の王ということだけでも不可解な話なのに、これから起こるであろうことを語ることは不可解さをさらに深めます。
・けれども、このダビデに与えられた主の御言葉は預言として姿を持っていました。そして、新約聖書においてこの預言が成就するのです。
・救い主として地上来られたイエスさまは、預言を実現するために来られた方です。旧約聖書で神から預かったすべての預言が実現するためです。
・ルカ18.31(p146)にも「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する」とのイエスさまの御言葉があります。
・ダビデが自分の主に告げられた言葉として110編の詩編の言葉を記していることを考えると、明らかに、ダビデはメシアよりも下に位置する存在であることを自覚しているのです。

○「どうして」
・これらの事を踏まえてからイエスさまが「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と問いかけられていることに目を向けたいと思います。
・110編の姿から、御自分が「ダビデの子」と呼ばれることは相応しくないことを明らかにされているのです。ここでの「どうして」は「どのようにして」ということです。
・これだけはっきりと「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに」なぜ、また、どのようにして「ダビデの子」という言い回しが可能なのか。と問いかけておられるのです。
・これを聞いた「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とこの箇所は閉じます。なぜ群衆が喜びを覚えたかについて何も触れられていませんが、「イエスの教え」を喜んでいることは間違いありません。
・それはこれまでにはない新しい教えだったからかもしれません。また、ダビデという人間の王の上に立つメシアの存在に喜んだのかもしれません。
・あれだけ立派な王として知られているダビデすらも「わたしの主」と呼びかけるようなメシアが来られることに期待が大きく膨らんだのかもしれません。
・そういった群衆の内なる思いは確かではないにしても、イエスさまが示されるメシア像は、どれだけ偉大な地上の王であったとしても、どれだけの権力を持っている者だとしても、それを従える天に属する権威をもったメシアの到来を明らかにしたのです。
・これは群衆からすると、喜びの知らせに他なりません。自分たちのための救いが必ず起きるという確信に満たされる良い知らせです。文字通りの福音です。
・しかし、私たちは知っています。群衆が思い描くような国家再建が実現するためのメシアではないことを。むしろ力ない者かのように無残に十字架刑によって死なれる方であることを。それはあたかも地上の支配者に屈した者かのようです。
・ここでも「どうして」という言葉聞こえてきそうです。どうして何の力も発することなく、死んでしまうのか、どうして自分たちの思いをかなえてくれないのか。こんな思いが充満してくるのです。
・しかし、イエスさまのメシアとしての最大のお働きが十字架の死と復活にこそあることを私たちは忘れることはできません。
・どれほど偉大な王であっても力が及ばない命の事柄、しかも地上の命を超えたまことの命の事柄、神の救いに関わることだからです。
・地上の王は地上の事柄に絶大な力を持っていたとしても、神との関係を取り持つことはできません。神の救いを約束することなどできません。
・地上の限られた所のみに目を向けるのではなく、天上にあるまことの命に思いを向けさせていただくのです。メシアであるイエスさまによって天に思いを向けさせていただき、神の右に座しておられる方として、地上の王の上に立つまことの王としていてくださる唯一のお方に喜んで聞き従っていくのです。
・私たちの思いではなく、天で行なわれるように神の御心が地上でも行なわれるようにとの祈りを持って、喜びつつ、真摯に御言葉に聞き従う者として歩んでいくのです。





私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。
ルカによる福音書12章48節bより

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牧師 阿部 啓(あきら)