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新型感染症関連
感染症予防対策の上、以下のとおりに集会を開催いたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
〇教会学校
日曜午前9時~
〇バイブルカフェ
12月16日(木)10時半~

教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 アドベント第3主日
日 時 : 12月12日(日) 
説教題: 「その地方のどこでも」
聖書箇所: イザヤ書58章6節―11節
      マルコによる福音書6章53節ー56節
説教者:  阿部 啓牧師 

       2021年12月5日説教要旨
    マルコによる福音書6章45節ー52節
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
           マルコによる福音書6章50節より

〇「5千人の給食後の解散
イエスさまは5千人の男たちを中心とした群衆を満腹にするという奇跡を行われました。群衆に向けて御力をはっきりと示された出来事でした。
そこから「それからすぐ」と続くのが本日の箇所です。ここでイエスさまがなされたことは、弟子たちを無理やり舟に乗せ、向こう岸へ渡らせ、群衆を解散させられたことです。
・5千人の給食の記事の始まりには、目の前の群衆を優先されたイエスさまのお姿がありました。それとは対照的に、今回は弟子たちを先に行かせ、群衆と別れた後にイエスさまは祈るために山へ行かれました。
・しかし祈ることだけが理由ではなく、何か他に理由があるのでは?と思わせるほど、大急ぎで人々を送り出しているように思えてなりません。
・ここには誤った理解が蔓延しないようにとも思いがあるのではないかと思います。それは、本日の箇所の最後の一文から与えられる理解です。
52節には弟子たちが「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子たちですら十分に理解することができないならば、群衆には到底難しいことは想像できそうなことです。
目の前で起こった5千人の給食の奇跡をもって、人々に訴えかけることは簡単だったことでしょう。また、その場で、弟子たちが群衆に対して得意満面でイエスさまを自慢することも考えられます。
けれども、給食の奇跡の直後に弟子たちを強制的に送り出し、群衆を解散させるイエスさまはそれをお許しにはならなかったのです。それは、目に見えることだけをもって救われたとされることがないようにとの配慮だといえるでしょう。
・それは事の本質を受け止めることが大事だと言い換えることができます。どれだけ人々に喜んでもらえたとしても、その意図が伝わらなければ意味がありません。イエスさまの目的は決して人々の欲望を満たすことではないのです。
・イエスさまが示される様々な事柄は、私たちに神さまのことを表す言葉です。この言葉に正しく耳を傾けることができるかどうかが問われているのです。
・イエスさまが行われる奇跡は人の思いを満たすための出来事ではなく、神のみ心が示される出来事として受け取ることが何よりも大切です。イエスさま御自身が神の御心として受け止められることを望んでおられるのです。

〇「一人になられたイエスさまと湖上の弟子たち」

・そして、イエスさまは一人陸地に残り、山で祈りの時を過ごしておられます。その背後で夕方には湖の真ん中に弟子たちの舟があることをこの福音書は示しています。
・しかし、この舟は逆風に悩まされることになります。ここで言われている「漕ぎ悩んでいる」のは深刻な状況です。というのも、この悩んでいるとは「拷問にかける」ということをも意味する言葉だからです。
・深い痛みを伴うような悩みです。自分では解決できない深刻な状況なのです。この湖を漁場として働いていた弟子たちをもってしてもどうすることもできない状況でした。
・湖上で漕ぎ悩んでいる弟子たちの姿は、イエスさまから離れて身動きできなくなっていることを示しています。
いくら条件が悪くても、この湖を渡るには六~八時間あれば十分だそうです。夕方には湖の真ん中にいたことが確認されていますから、午後5時くらいには半分程度来ていたことになります。
その後夜明けるころまで、湖を渡り切ることができずにいたのです。本来であれば、とっくに向こう岸についている時間です。
・しかし、イエスさまから離れ、孤独の中に置かれた弟子たちは前に進むことができずにいるのです。逆風や嵐は、単なる苦難としてではなく、イエスさまとの関係が失われている状況を明らかにするものです。イエスさまを見失っている状況では進むものも進まないのです。
・主イエスから遠ざかっている人が孤独や不安の中に置かれている状況がここにあります。しかし、この舟の姿を見ておられる主イエスがおられることは注目に値します。
・たとえ遠くに離れていても、主の視線は弟子たちを捉えているのです。そして、見守っておられます。漕ぎ悩んでいる姿を見て、近づいてきてくださるのです。

〇「主の現臨」

48節では「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。これは見方によっては、苦しんでいる弟子たちを尻目に一人先に進んでいこうとしているようなイメージを持つかもしれません。
列王記上1911節には、神の山ホレブに逃れた預言者エリヤのそばを「主が通り過ぎて行かれ」て、主ご自身を顕されたことが記されています。
この通り過ぎるということは、先進んでいくというよりも、そこに現れてくださる神の現臨を意味します。決して弟子たちを無視しているのではなく、むしろ弟子たちに現れるために舟のそばを通られているのです。
・けれども弟子たちは、そのお姿を見て幽霊だと叫ぶのです。自分を弟子たちの一人として考えてみると、間違いなく同じような反応をしてしまうのではないかと思えてなりません。
・イエスさまについて、すべてを正しく理解し、受け止め、信じることができれば、このような間違った反応をすることはないでしょう。
・残念ながら主の御前にあって不完全な私たちです。主が来られても正しく認識できません。怯えて逃げ出したくなってしまうようなものなのです。
・正しく認識できないことを私たちは必要以上に恐れます。私たちが主と出会うということはそれほどまでに、信じがたい出来事です。常識では考えられないことなのです。
それでも主イエスは怯えている弟子たちを前に「すぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ」ます。
弟子たちを怯えたままにしてはおかれません。「すぐに」声をかけられます。5千人の給食の後すぐに解散させられたのと同じように、怯えている弟子たちにすぐに声をかけられています。
主が必要とされることは直ちに行われるのです。人々に相応しい時に相応しいことを必ず行ってくださるのです。この時は弟子たちと出会ってくださる時なのです。
・ただ、その姿を確認しても、それが誰だか分からない弟子たちでした。目で見えていても、それが誰か気づかないのです。

・弟子たちがいたのは湖の上です。舟も使わず近づいてくるイエスさまをどうして簡単に喜び迎えることができるでしょうか。恐怖におびえても何ら不思議ではありません。

〇「安心しなさい」
主イエスはそんな弟子たちに必要な御言葉を投げかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。
この一言は大きな安心をもたらす一言です。イエスさまから離れて孤独、不安、恐れに苛まれている弟子たちでした。そこに来てのこの一言です。

・私はここにいる、この呼びかけほど心強いものはありません。迷子の子供に対する親との再会の安心や、遭難した際などの救助隊の存在の確認などは間違いなく励みになります。
・弟子たちは湖上で動けなくなっていました。それは私たちが主から離れてしまし、さまよい動けなくなっている状況です。私たちは主との関係がなければ動けないのです。
・そこに来て下さる主イエスがおられることに希望と励まし、また、先に進む力と確信が与えられます。
・イエスさま以上に安心をくださる方はおられません。これ以上ない安心の約束を受けるのです。
・けれども素直にイエスさまを受け入れることができなかった弟子たちの心が鈍くなっていたことをこの福音書は指摘します。
・鈍くなっているのは触れられても気がつかないほどの状況です。皮膚が固くなって感覚が鈍っている状況が語源にあります。
・かかとなどが固くなって触れられても気が付かないとか、足にできたタコや手にできたマメなどを思い起こしていただけると分かるのではないでしょうか。
・実際には触れられているのに、そのことに気が付かないほどに固くなってしまっているのです。主イエスに対してそういった鈍さを持っている私たちなのです。
・目の前に来てくださっても気が付かない、確かに語りかけられているのに、聞き取ることができないのです。
けれどもイエスさまの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とのみ言葉は、私たちの鈍く固くなってしまった思いを柔らかく解きほぐしてくださいます。
呼びかけと共に、聞くべき耳を持って聞くことができるように聖霊の助けを送ってくださるからです。
・主の御前に立たされてなお、自らの思いにしがみつく頑なさしかないような私たちです。それでも、見捨てることなくその視線を注ぎ続けて下さり、呼びかけて下さる主がおられるのです。
・「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」との呼びかけを受け、主の御言葉に聞き従い、まことの平安の道を共に歩んでいくことができれば幸いです。



私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。

今週の聖句 
身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。    ルカによる福音書21章28節より

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牧師 阿部 啓(あきら)