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新型感染症関連
感染症予防対策継続して、以下のとおりに集会を開催いたします。ご理解頂きますようお願いいたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
11月30日(木)10時半~



教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

アドベント第一 主日礼拝
日 時 : 12月3日(日) 10時15分~
説教題: 「大迫害と驚きの業」
聖書箇所 詩編115編12節-16節
     使徒言行録8章1節b-13節
説教者: 阿部 啓牧師

         2023年11月26日
「「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」
               使徒言行録7章60節より


〇「キリストと共に生きる生き方」
・使徒言行録で説教を語るステファノは6.11にあるように「モーセと神を冒涜」したことを理由に訴えられ、尋問を受けることになったため、自らの信じる所、立つべき場所を明確にしているのです。
・しかしこれは自己弁護ではありませんでした。自分が何を信じて生きているか、つまりキリストを信じ、キリストと共に生きていることを証しする言葉でした。
・ステファノは裁判における身の潔白の証明など全く考えていませんでした。彼の思いにあるのはキリストが救い主であることを証しすることだけです。
・これは、信仰者としてあるべき姿だといえるでしょう。自分がどのような状況に置かれたとしても、語り示すのは主なる神だけだということです。これは目指すべきものとして示されつつも、なかなか実践できずにジレンマを抱えながら信仰生活を送っている方も少なくないことでしょう。
・目指す事柄が分かっていながらも、それができないことはしばしば失望感や無力感を呼び起こし、そこに疲れを覚えるといったことも起こることもあるでしょう。特に信仰生活においてこれはしばしば起こってくるものです。
・信仰者がなすべき生活は、キリストを証しし宣べ伝える生活です。これは主イエスの地上における最後の言葉として使徒1.8で語られている言葉から示されるものです。
・「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
・地上のすべてにおいてイエス・キリストを宣べ伝えるのが信仰者の使命として命じられている働きです。救いをもたらされた救い主との前向きな関係の中で命じられているものです。
・心から大切にしたいという関係が与えられると、そこで懸命に生きるのが私たちです。その相手に喜んでもらいたいと思うものではないでしょうか。また、そういった喜んで仕えたいと思える相手と出会うことはかけがえのない喜びでもあります。
・キリストとの出会いはまさにこのような喜びをもたらしてくれるものです。しかもキリストが求めておられることが先ほどのように「わたしの証人となる」と言われるほど明確なものです。
・それでも、この言葉と共に生きようとする時にしばしば二の足を踏んだり、思い悩んだりするような日々が待っていることがあります。特に私たちが置かれている昨今の状況ではなおのことそう思わざるを得ません。
・何を言いたいかというと、皆さんは日曜日以外にどれほど自覚的に信仰者としての生活をしていますかということです。自虐的にサンデークリスチャンなどと口にする人もいます。
・その言葉を聞いた時に妙に納得した気も致しました。ただその時のクリスチャンを指すものは何なのかは慎重に考える必要があるでしょう。これさえしていればクリスチャンだと言える答えはないからです。
・それでも、そういったことを求めがちな私たちです。しかし、たとえそういった答えがあったとして、それだけをしていれば良いということになればそれこそステファノの説教からお説教を食らうことになってしまうでしょう。
・キリストとの関係で私たちの側から提供できるものなどないからです。信仰はひたすらに信じることです。そこから行動に導かれていくことを忘れては何も生み出されません。
・クリスチャン人口がかなり低いこの国であることと昨今の状況を考えると、場合によってはサンデークリスチャンとして生きることを余儀なくされることもあるでしょう。
・それでも自分に信仰が与えられたことを喜び、自分の根底にキリストに救われた出来事があることを忘れずに信仰生活を歩んでいけばよいと思います。
・しかし、そこに満足するのではなく、主にある成長を求めていくのが信仰者です。月曜日から土曜日の生活が日曜日の礼拝によって整えられた生活を送ることができるように、御言葉を求めるのです。
・礼拝によって一時の充足や休息を得るのではなく、一週間に必要な糧を御言葉から受けて、神と共に生きる歩みへと遣わされていくのです。あなたの生活とキリストの救いの出来事が離れることは、キリスト御自身が望んではおられません。そうならないように御言葉に聞き続けるための教会での礼拝の時が備えられているのです。
・ステファノの説教は神の御言葉を語り、命がけで議会の間違いを指摘しているともいえます。議会が神に反する呪われた者として十字架に架けたナザレのイエスをキリストとして証言するわけですから、並大抵のことではありません。
・裁判ということで言うならば、自分で自分の立場を悪くしていると言われても仕方ないものです。しかし、彼はキリストと共に生き、キリストを大胆に証しすることから離れることはありませんでした。

〇「尋問する側が受けた怒り」
・この尋問はステファノを罪に定めるための時でしたが、そんなことは全く意に介さないステファノでした。それどころか、語る言葉をもって周囲にいるユダヤ人たちを追求し、神を信じる者として否を突き付けます。
・その具体的な指摘が、ここに至るまでの旧約聖書を通して示された罪の歴史からのキリストを十字架に架けて殺害したユダヤ人、特に権力者たちの罪とかたくなさでした。
・7.51では「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」とありました。
・ここで言うかたくなさは「首」と「かたい」が合わさった言葉です。首がこわばっているということですが、肩こりのような状況をさしているわけではないようです。
・確かに肩が凝り固まっていると、首が回らなくなります。見たい方向を向くことができなくなります。しかし、元々は家畜に対して用いられていたようで、どれだけ動かそうとしても頑として動こうとしない主人の言うことを聞かない動物の姿からきた言葉だそうです。
・飼い主の意思に逆らう姿であり、そこから神の意志に反して自分の意志を押し通そうとするかたくなさを指すのです。さらに「心耳に割礼を受けていない」というのです。ユダヤ人男性は皆幼い時に男性の性器の皮を切る「割礼」という儀式によって目に見えるしるしを体に刻みます。しかし、見えるしるしだけで、心の中では神の言葉に逆らっていることを明確にします。
・神の言葉に生きる民にとってこれほど屈辱的なことはありません。割礼こそ彼らのアイデンティティーですから、そこを否定された彼らの激高は当然です。
・そんな中で55,56節にあるようにステファノは、はっきりとキリストを見上げて言葉を語ります。議会の人々からすれば、神を冒涜し、呪われた者として十字架につけた人間を神と共にみていると証言されることは我慢なりません。
・このように周囲の人々が怒りに駆られているのに対して、ステファノは静かに天におられる方を見つめます。これは肉眼で捉えているというよりは、天におられる神とキリストの姿を確信と共に捉えていることを意味します。
・私たちからすると最後の希望とも思われるような描写でもあります。今まさに自分の命が絶たれようとしている状況においてなお、取り乱すことなく主なる神を見つめているからです。
・しかし、このステファノの姿が決定打となり、人々はこれ以上、何も聞く必要はないといった姿でステファノに襲い掛かります。この行動も単に感情の高ぶりによって引き起こされたものではないとみるべきでしょう。
・レビ24.14‐16には「冒涜した男を宿営の外に連れ出し、冒涜の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す。あなたはイスラエルの人々に告げなさい。神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。」とあります。
・更に申命記17.6‐7には「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」ともあります。
・これらは58節の「58都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」にそのまま適用されているといえます。
・従ってステファノに対する石打の刑はユダヤ人からすると、神に逆らった者に対して定められている規定に従った処刑だったのです。公的な死刑として執行されたのです。着物を置いたと言われる所にも一定の秩序が見えます。
・ただ、こういった姿は明らかにイエス・キリストの十字架に通じるものです。十字架裁判もまた議会の思惑の中での判決でした。神の言葉に対する服従や謙遜はなく、自分たちの思いを満たすためのものでした。同じことがステファノに対しても繰り返されるのです。
・更にこのステファノの目撃者としての地にパウロとして伝道者として活躍するサウロが登場します。

〇「ステファノの最期」
・そして死の間際のステファノの言葉もまた、イエス・キリストの十字架でのお姿を思い起こさせます。そして、この姿はキリストに倣って生きる信仰者の姿です。
・59節「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」60節「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」はそれぞれ主イエスが語られていたことです。
・ルカ23.34では「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」同じくルカ23.46では「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と記されている通りです。
・ステファノはユダヤ人指導者たちを厳しく追及していました。しかし、最後にはキリストに倣って赦しを祈り求めるのです。ここに徹底して神の言葉に生きようとする者と神の言葉を退け、自らの思いに生きる者との対比が現れます。
・キリスト教会最初の殉教者であるステファノの姿から、死の間際にあってもキリストを見上げ、キリストの言葉に生きる、いや死ぬことを通してなお、確かに証しする力強さを思い知らされます。
・更に殉教者を意味する英語の「martyr」の語源から興味深いことが分かります。
・手元のギリシア語辞書から要約すると「英語「martyr(殉教者)」はマルトゥルの音訳である」とあります。殉教者というのは元来、宗教のために命を落とす人を指すのではなく、マルトゥルの意味である証人、証言者、証し人から生まれているのです。
・最初の殉教者といわれるステファノの姿はこのことを強く表しています。彼の生涯はキリストの証言者としての生涯でした。何のために生き、死ぬのか、との哲学的な命題よりも死の時に至るまでキリストを証しするために生き続けた命、それが殉教者なのです。
・そして、この主を証しする者には主のお姿をその目で見て、主の御言葉をその耳で聞く希望が与えられるのです。死の間際に天に見た神とみ子のお姿、最後まで聞き従った主の御言葉がステファノにはありました。
・彼の姿から地上の命の先に確かに続く救いの道、そして天国への希望を与えられると共に、神さまとの直接的な交わりに対する希望が確かにされてるのです。
・この希望は私たちが地上において主を証しする一人一人として歩む力の源になります。主なる神さまと共に生きる道を喜びとしている信仰者ですから、この方と共にある天国への希望は計り知れません。
・そして、主の御国に続く救いの道は、主を証しする信仰者一人一人に確かに約束されています。そして、この約束の実現として与えられたクリスマスを待ち望むアドベントを、喜びと希望をもって迎えましょう。











私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
 ルカによる福音書12章35節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)