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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
12月19日(木)10時半~


クリスマス関連
〇クリスマス礼拝
12月22日(日)
      10時15分~
礼拝後1時間程度、祝会

〇子どものクリスマス会
(ペープサートによる
     ページェント

12月22日(土)
     11時~13時

〇クリスマス・イブ礼拝
12月24日(火)
    18時半~19時半

教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 アドベント第三週
日 時 : 12月 15日(日) 10時15分~
説教題: 「説き伏せる」
聖書箇所  サムエル記上12章 6節-7節
      使徒言行録 18章 24節-29節
説教者:  阿部 啓牧師



         2024年12月8日
「「神の御心ならば、また戻って来ます」」 
              使徒言行録 18章23節より


聖 書  民数記  6章18節-21節
     使徒言行録 18章12節-23節

○「ユダヤ人会堂に対する統治者の判断」
・ガリオンという人物は紀元51年から52年にかけてアカイア州の地方総督であったことが歴史的に確認されています。そしてこの人は哲学者であり政治家であったセネカという人の兄弟だったそうです。
・セネカが書いた書物によると、ガリオンは様々な人と快く付き合うことができる魅力的な人格者だったようです。このことはガリオンが空気を読むことに長けている人物だったことを示すのではないでしょうか。
・ローマの役人として働くことを考えると、空気を読めることは重要な要素だったのではないかと思います。単純に言えば、その都度必要を見極めて対応することに長けていたといえるでしょう。
・最近ではコミュ力といわれるような対人能力、また状況に応じた対応能力に基づく統治能力が認められて、アカイア州の地方総督の地位におさまっていたとしても何ら不思議がないと思います。
・ガリオンは、アカイア州でも適切な判断を下すことができる人物として受け入れられており、ユダヤ人会堂の人々は、法に基づいてパウロの伝道活動を訴えられると確信があって訴え出たのでしょう。
・それ以上に彼らはパウロに対しての怒りを隠しませんでした。6節には「彼らが反抗し、口汚くののしった」ことが示されていました。ここでも何とかして公的に裁きたいのです。しかも裁判によってパウロを負かしてその働きを妨げたい、自分たちの正しさを証明したいと考えていたのでしょう。
・もしアカイア州の地方総督によって断罪されて伝道禁止の判決が出ようものなら、パウロの働きはだいぶ困難なものとなったことでしょう。実際17章6節-9節にはテサロニケの町の当局者たちの判断として次のように記されていました。
・「しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。」」つまり、ここでユダヤ人の訴えが聞き入れられて、これ以上イエスについて語ることはないことを約束させられたのです。
・ここでの保証金は、これ以上イエスについて語らないということに対する保証金でした。これを受けて、テサロニケの町を後にしたパウロ一行だったのです。けれどもこれはテサロニケという一つの町の判断でした。
・それがアカイア州となると、判決の効力が影響する範囲はけた違いです。けれども、ガリオンの対応はユダヤ人が思い描いていたものとは違うものでした。
・ガリオンはユダヤ人たちの思惑とは違い、彼らの申し出を門前払いしました。ガリオンの優れた政治感覚は、ここでのユダヤ人の申し出を受け取るべきでないと判断したのです。
・事の良し悪しを判断する以前のことだと一蹴したのです。ガリオンは地方総督としてローマ帝国にかかわることや、政治的な事柄などには判断材料を持っていたけれども、宗教的な判断に関しては門外漢であることを自覚していたのです。
・14節、15節に「パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」」とありました。
・まず、パウロに話す機会を与えないほど、素早く厳然たる姿勢でガリオンは言葉を発しました。
・あたかもお前たちの内輪もめにかかわるつもりはないと宣言しているかのようです。これは賢明な判断です。自分の扱うべきでないことは徹底して遠ざけるのです。必要以外のことにかかわると、思いがけない状況に巻き込まれる可能性が大きくなります。
・分からないことを分かったふりをして、やり過ごそうとするのは、賢明でないばかりか不誠実です。適当な扱いをしたことが判明すると、非難が集中することは明らかです。
・ガリオンはそういった自分を守る道を選び取っているのです。それ以上にこの出来事は、伝道活動に生きるパウロに対する神さまの守りの表れであることは明らかです。
・直前の18章9節、10節には「「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」」とのパウロに対する神さまの約束が示されていました。
・12節には「ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って」とあることに、パウロが襲われているではないかと思われるかもしれませんが、神さまの約束の視点はもっと広いのです。
・細かな部分では苦難があったとしても、神さまの御言葉を宣べ伝える伝道の働きにかかわる事柄は、必ず守られるのです。ここでもガリオンの判断を通してパウロの働きが守られ、コリントの町でキリストの福音が宣べ伝えられていくことになったのです。
・神さまの御心が行なわれるために、地方総督のガリオンの判断が用いられているのと同時に、パウロの進む道に神さまの守りと導きが確かに示されているのです。今地上に生きる信仰者である私たちに対しても、神さまの守りが与えられることへの希望が示されます。
・さらに17節には「会堂長のソステネ」についての記述があります。8節には「会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。」とあったので、クリスポがユダヤ人会堂の会堂長の職を解かれたことは間違いありません。彼の後を継いだのがソステネだったのでしょう。
・ソステネがガリオンに訴え出た一団の中心人物だったことは確かです。リーダーとしてで訴え出ていたことも考えられます。その彼が群衆によって殴られていることが示されていますが、ガリオンはここでも無関係であることを強調するかのように、無関心だとされています。
・ただ、ここでソステネを攻撃したのが誰かははっきりしません。パウロの仲間が報復のために攻撃したことは考えられないでしょう。群衆と言われている人々は元々舞台となっているコリントの住人だからです。
・そうなると二つの可能性が考えられます。一つはユダヤ人会堂の人々による仲間割れです。パウロを陥れるために訴えたはずだったのに、上手くいかなかった責任をソステネになすり付けているということです。
・もう一つは、ギリシア人たちが中心となった群衆による攻撃です。この町にはユダヤ人たちを快く思っていなかったギリシア人が一定数いたと考えられます。そのような人々の日々のうっぷんが噴出して、ソステネを攻撃したということです。
・私はこの件については一つ目のユダヤ人同士の仲間割れではないかと思います。そうでなければ、わざわざソステネの名前が登場する必要がないと思うからです。
実はこの名前はこことは別にもう一箇所で登場します。それがⅠコリ1.1です。そこには「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから」とあります。この二つの箇所のソステネは同一人物だと見られています。
・そうなると、ソステネはパウロの兄弟と呼ばれる存在となっていることが示されます。敵対関係にあったユダヤ人の会堂長から、キリストを信じ、パウロと共に働く信仰者に変えられていったと考えられるのです。
・残念ながらこの二か所以外にソステネの名前が出てきませんので、事の経緯ははっきりしません。それでも、敵対者が協力者に変えられる驚くべき出来事があったことを前提に考えると、そのきっかけの一つとして仲間割れによる攻撃があったと考える方が自然ではないでしょうか。
・また10節で語られた「この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」と言われた「わたしの民」つまり、神の民とされるべき大勢の一人として、このソステネも数えられていたとみると、ここに神さまの豊かな恵みと備えが示されてきます。

〇「第二回宣教旅行の区切り」
・このような神さまの約束のもとに守り導かれたパウロはコリントでの伝道の働きに区切りをつけ、シリア州に向けて船で旅立ちます。その理由は明らかではありませんが、パウロからするとコリントでの働きに区切りをつけることができたのでしょう。
・18節の「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った」ということが記されているからです。恐らくこの誓願とはコリントでの伝道についてだったと考えられます。
・その結果にかかわらず、コリントで伝道生活を送る期間に主の守りなどを求めて誓願を立てて、髪を切らずに過ごしていたため、コリントを出てすぐにケンクレアイで髪を切ったと考えられます。
・この船旅については付録が載っている新共同訳聖書だと、地図の8の実践を辿っていただくと進む経路が分かります。
・18節-22節の地名を整理するとコリントを西に出て、ケンクレアイへ。そこからエフェソに向かい、一気に南下してカイサリアに到着して、エルサレムに向かい、エルサレム教会に報告を兼ねて挨拶に行きます。そこからは地図に線は記されていませんが、陸路を北上してシリアのアンティオキアに向かっていきます。
・ここで出発地に戻ってきたことになるので、第二回の伝道旅行が終わりを迎えたことになります。それでも、18節-22節の短い記述においても読み取るべき事柄が多くあります。
・一つは、プリスキラとアキラが同行し、途中のエフェソに留まったことです。これは24節以下のアポロとの関りに繋がります。エフェソを訪れたアポロはプリスキラとアキラによって学びが深められ、伝道していくことになります。
・そしてプリスキラとアキラをのこしてエフェソから船出しようとするパウロを人々は引き止めます。パウロの移動の理由ははっきりしていません。そう考えるとエフェソに残って人々の願いに応えることもできたはずです。
・けれどもパウロの答えは「神の御心ならば、また戻ってきます」でした。パウロの移動の理由は明確ではないにしても、自分が思い描いた旅行を進めているわけでないことがこの答えから示されます。
・パウロは祈りの中で、自分が行くべき道を常にたずね求めていたのではないかと思います。それは神の御心に従っていくべきところに向かうということに他なりません。自分が行きたい所に向かうのではないのです。
・だからこそエフェソの人々に対しても「御心ならば、また戻ってきます」と答えるのです。神さまが必要とされるならば、再びこの地を訪れる機会が与えられるはずだと確信をもって応えます。
・私たちの感覚からすると体のいい断り方だと思われ、そう言っておいて実際に来ることはないだろうと、諦めを持って聞いてしまうような言葉です。
・けれども実際にはこの後23節から始まる第三回伝道旅行でエフェソを再訪することになります。ここに神の御心が示されました。パウロが再びエフェソを訪れ、広くキリストの福音を語り伝える姿が19章の冒頭から示されます。
・それでも本日の時点では、自分の思いで「必ずまた来ます!」と約束はできないのです。それだけ神さまにその身を献げたパウロの姿がここに示されるのです。
・旅の醍醐味の一つは、旅程を組むことにあると思います。これは人それぞれかもしれませんが、目的地と目的を考えながら、移動方法や時間設定などを考えるのはとても楽しい時間だと思うのは私だけでしょうか。
・それは行く先々の観光地や食事など色々な楽しみを経験するための準備で、ただただ自分を満足させるための準備だからです。旅そのものよりも色々と想像しながら準備する時の方が楽しく思えるほどです。
・けれどもパウロの旅はそのように自分を楽しませるものではありません。神の御心に従って進む道です。いわば神さまを満足させる旅です。そして、神さまの御心に適った働きに用いられた時に、自らも大きな喜びに満たされるのです。
・特に伝道旅行でしたので、行く先々で自分が語る神の言葉が聞き入れられ、信仰に入る者が与えられた時の喜びは、筆舌に尽くしがたい喜びだったのです。そしてこの大きな喜びが伝道旅行の原動力となったことでしょう。
・喜びが原動力の事柄は、希望に満ちています。悲しみや怒りが原動力となっていることとは全く違う姿を持っているというべきでしょう。それは今の私たちの世界の状況に目を向ければ少なからず示されてしまうことです。
・イエスさまはマルコ8.31-33で次ように言われます。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」
・ここで二つのことを確認したいのです。一つはイエスさまの地上の歩みが、神さまの御心に従うものだったことです。十字架の苦難、死と復活を経験されることは、楽しいこととして喜んで受け入れる出来事ではありませんでした。それでも、神の御心のままに歩まれたイエスさまです。
・もう一つは、ペトロがイエスさまの言われたことをいさめ始めた時に、大変厳しい言葉で叱責されていることです。イエスさまの一番弟子なのにイエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われたと思うと、自分ならば悲しく情けなくなってしまいます。
・ただその理由をしっかりと見なければなりません。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」といわれているのです。自分の思いが神の御心に優先するときに、イエスさまは「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責されるのです。
・それは神の御心に逆らうというよりも、神の御心に信頼できていない人間に対する厳しい言葉です。神の備えに不安を持つなという命令であると同時に、神の備えに信頼していけば大丈夫だという励ましの言葉でもあります。
・パウロの伝道旅行はこのようなイエスさまの御言葉の実現であり、神の御心を祈り求めながら生きる信仰の道に確かな希望を示すものでもあります。神の御心のままに生きる時、様々な苦難の経験があるかもしれません。楽しいことばかりではない人生であることは言うまでもありません。
・それでも、私たちには確かな希望があると聖書は語るのです。目の前の一時の満足ではなく、あなたの命すべてにかかわり、あなたという存在すべてを満たすために備えられている神の御心があるということを。
・それはあなたが神と共に生きる救われた者として新しい命を生き始めることです。
・アドベントの第二週を迎え、クリスマスの到来を待ち望むこの時にあって、クリスマスがイエスさまの誕生を喜び祝う時であることを思い新たに心に留め、イエスさまによって救いが確かに私たちの世界に訪れたことを感謝しつつ新しい一週間に遣わされていくのです。
・あなたの歩みに神の御心が確かに示されますように。そして示されたことを感謝しつつ受け止め、これに聞き従っていくことができますように共に歩んでいくことができれば幸いです。




私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。


今週の聖句 
身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ
  ルカによる福音書21章28節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)