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新型感染症関連
感染症予防対策継続して、以下のとおりに集会を開催いたします。ご理解頂きますようお願いいたします。
〇マスクの常時着用
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇窓を常時開放しています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。また、日々の検温も心掛けてください。
〇その他、来会の際に教会の掲示物をご確認ください。
〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
10月19日(木)10時半~



教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝
日 時 : 10月1日(日) 10時15分~
説教題: 「相応しい働きを」
聖書箇所 民数記8章5節-11節節
     使徒言行録6章1節-7節
説教者: 阿部 啓牧師

         2023年9月24日
「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」
            使徒言行録5章41節、42節より


〇「迫害とその受け止め」
・キリスト教の歴史、もっと言えば聖書の歴史は迫害の歴史です。様々な時代、場所において迫害を経験している神の民、そして教会の歴史だともいえます。
・しかし、同時にはっきりと示されることは、神の救いの備えの歴史です。神の救いの備えがなければ信仰が宣べ伝えられ、地上の教会が立ち続けることなどできません。
・神さまの御心にかなわなければ、私たちの計画はすぐに頓挫してしまうことでしょう。迫害に立ち向かうことなどできずに、簡単にくずおれてしまう私たちであることを誰が否定できるでしょうか。
・そのような現実は、特に信仰の事柄、神さまとの関係において、人の思いや個人的な思いが優先されるようなことがあれば、顕著に表れます。
・もし、クリスチャンが社会的に評価される存在だと受け止められているということを理由にキリストを信じ、信仰者として歩み始めるといったことがあれば、社会から白い目で見られるような迫害の中に置かれれば、すぐに迫害する側に回ってしまうことでしょう。
・イエス・キリストの十字架の場面を思い起こせば簡単に想像できるものですが、それが人間の現実だと言っても過言ではありません。
・はたまた、尊敬できる信仰者に憧れを抱き、信仰へと導かれるということもあるかもしれません。私たちの交わりにおいても、そういった方が少なくないと思います。
・そこで教会に結びついて、信仰の交わりの中で教会生活を送ることになれば喜ばしいことですし、一信仰者として主を証しする者として用いられた喜びに満たされることでしょう。
・けれども、その人との個人的な関係がなくなってしまうと、教会との関係、神さまとの関係すらも解消してしまうような現実が多くはないでしょうか。
・人の思いが優先されるようでは、信仰の歩みにおける苦難を乗り切ることは出ません。むしろ苦難の中でこそ明らかにされる信仰の確かさがあるのです。
・Ⅰペトロ1.5‐7には「5あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」とあります。
・金属の精錬作業をたとえに信仰の訓練が語り示されます。金属は火に打たれ、鍛えられなければ良いものとはなりません。何も金属で例えなくとも、私たち自身の身体的訓練でも十分に理解できそうなものです。
・強い負荷をかければかけるほど、大きな結果が与えられます。しかし、その負荷に耐えきることができないと意味がありません。
・その見極めがうまくいけばよい結果が与えられます。筋力が上がったり、思いどおりのボディメイクができたり、より健康になったりするものです。
・鉄や鋼で、刃物を造る際にも同じで、相応しい鍛え方ができれば素晴らしい刀などが出来上がるそうですが、刀工の思いどおりにできるものはそれほど多くないようです。
・信仰の訓練は、そのような製鉄に通じるところに例えられるのですが、違うのは刀工の存在です。私たちの信仰を鍛える刀工の存在は神さまです。場合や状況、環境によってその出来栄えが変わるような方ではありません。
・鍛えられるべき私たちに相応しく、必要な鍛え方を備えて下さる方です。この方の苦難を経て与えられる信仰の成長があります。そして、そのための備えを必ず準備していてくださるのです。

〇「ガマリエル」
・本日の使徒言行録に登場するガマリエルも神さまによって備えられた一人の助け手だと言えるかもしれません。彼は使徒たちの仲間とは言えませんが、助け舟を出した人物として描かれていることは間違いありません。
・そもそも、エルサレムの議会は使徒たちの言動に怒りを覚えています。何とかして罪に定めて使徒たちの活動を抑え込もうとしているのは明らかです。
・自分たちが神を冒涜した罪で十字架刑に処したナザレのイエスをキリストとしてあがめ、伝道活動を続けているのですから当然です。
・また議会においては、サドカイ派は庶民よりも上流階級に好まれ、ファリサイ派は人々の好意を得ていました。しかもここでは「民衆全体から尊敬されている律法の教師」といわれるガマリエルです。
・よくよく見ると律法学者ではなく、律法の教師となっています。それなりに聖書に親しんでいると律法学者という言葉に耳なじみがあるのではないでしょうか。
・イメージとして律法の教師は人々から受け入れられ、好意的な用いられ方をし、律法学者といわれるとイエス・キリストの敵対者として用いられることが多いものです。
・というのも、律法を言葉だけとしてしまっている律法学者をイエスさまは叱責されるからです。更には、イエスさまは信仰によって救われることを公言しますから、律法の教えを守り生きることを求めるファリサイ派の人々からも疎まれ十字架の判決に繋がっていってしまいます。
・それでも、律法の教師は律法を生活の中心に据えるということで人々の間で広く受け入れられていたようです。表面的な言葉だけとしか捉えていない律法学者ではなく、実践的な律法の教師、律法の教えに基づいた生活を示す存在の方が庶民には喜ばれたといってもよいでしょう。
・彼についてはユダヤ教の文書の中で「ガマリエルの死と共に律法への尊敬は失われ、清潔と禁欲も同時に後を絶った」と言われている程に、優れた律法の教師であり、体現者であったことが伺い知れます。
・更に使徒22.3でパウロは「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」と自己紹介します。
・ガマリエルがよき指導者として名の知れた存在だったことが分かります。言うなれば、彼は神の教えを中心に生きていた人物だったのです。だからこそここでも一定の役割を担います。
・明らかにねたみ、怒りという人の感情に支配され、使徒たちを裁こうとする議会の中で、確かにサドカイ派との対立関係はあったかもしれませんが、神の御心を求めるという、本来の議会のあるべき方向性を示すのです。
・これは、神の教えとしての律法に照らし合わせて、正当なことをしているかという議会への問いかけでした。むしろ自分たちの判断で何かをするのではなく、神さまに判断を委ねようと申し出るのです。
・人の怒りに満ちたこの場における唯一の良心のような存在として、人々から尊敬されている律法の教師ガマリエルが登場してくるのです。

〇「神に逆らう者となるかもしれない」
・そこで例に挙げられる二人の人物がテウダとガリラヤのユダです。彼らの活動時期と活動内容が必ずしも史実と一致するわけではないようですが、語ろうとしていることは明確です。
・それぞれに伝えられている内容を紹介すると、テウダはユダヤの革命家、反ローマ主義者で、彼に率いられ、反乱がおこったけれどもローマ軍によって鎮圧されたとのことです。
・ガリラヤのユダの場合も、住民登録の時とありますが、これはルカ2.2(p102)の降誕物語の冒頭に登場する「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」と言われている時だと思われます。
・この住民登録は税金の課税対象を明確にするための人口調査だったと言われます。しかし、この時、自分たちが納めるべき相手はローマ帝国ではなく神のみだという理由で反乱を企てたのが、ガリラヤのユダという人物だったそうです。しかし、これもローマ軍によって鎮圧される結果となります。
・ガマリエルはこの二人の名前を挙げることで、史実を確認するよりも、人の思いから生じた計画は失敗することを確かに示し、使徒たちの言動も同様で、神が命じられたことでないならば必ず失敗するから放っておこうというのです。
・38節、39節に「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」とあるのは、議会の人々の本心でしょう。
・おそらくここには使徒たちに対する同情は全くと言ってもよいほどないでしょう。彼らの中にあるのは「もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」という思いです。
・どれだけ批判されようとも、彼らの根底には神へのおそれは必ず存在しています。むしろ私たちよりも切実な思いをもって、神へのおそれを感じているとさえ思わされます。
・だからこそ「神に逆らう者となるかもしれない」という一言はかなりのパワーワードだと言えます。そんなことを言われるとどうしようもないのです。絶対に避けたいことなのです。
・ガマリエルの思いどおり、一同はこの意見に従います。ここに使徒たちの視点からすると、神の備えがあったことを見ることができます。人の目から見て敵だとか味方だとか関係なく、必要なことが必要な時に行われるのです。
・しかし、議会はガマリエルの提案を受け入れて使徒たちを簡単に無罪放免できるほど懐が深いわけではありません。
・一度禁じたことを破った者たちを何事もなかったかのように解放しては、議会の威厳にかかわります。議会に従わなかったことの罰として「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じてうえ、釈放した」のです。

〇「辱めを受けて」
・当然、鞭打ちの刑は誰もが嫌がることです。痛みは勿論のこと人の尊厳までをも痛めつけ、辱める刑罰であることは言うまでもありません。
・身体的苦痛と共に、自らの存在が辱められるような刑を受けた使徒たちでしたが、それがイエスの名のためであったことは彼らにとって喜びでした。
・イエスの名のために生きていることが認められていることの証に他ならなかったからです。たとえ傷つけられたとしても自分が主イエスの名ために働いていることが公に認められたのです。それが何よりもの喜びだったのです。それほどの思いを生じさせるほどの大きな働きに仕えたのです。
・辱めすらも辱めとなりませんでした。イザヤ書においても見ることができるように、主によって語る舌と聞く耳が備えられたものは臆することなく主なる神に仕える者とされます。
・たとえ暴力による迫害、嘲りを受けたとしても、それを意に介さないほどに、さらには辱めを受けないと断言するほどに、主の御言葉に仕えることに対する神の備えの確信と希望に満たされた者とされていきます。
・それが使徒たちの内にも起こっているのです。そして、使徒たちは「最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」のです。
・最高法院の命令などどこ吹く風です。人の言葉ではなく、神の言葉に生きているからです。ここには徹底して神の御心に聞き従う信仰の応答が求められているのです。自分の中にある反骨精神や政治的思想などで社会に対抗するというのとは全く違います。
・誠実に神さまと向き合い、祈る中で為すべきことを為すことができるように、神さまの御業が行われるために仕えていくのです。これは簡単なことではありません。
・けれども使徒たちは聖霊に満たされて、主の御業に仕える者とされています。辱めを与えるに値する者とされるほどに、名実ともに主に仕える者とされていることに感謝をもって仕えているのです。
・特に本日の最後に記されている「福音を告げ知らせていた」という一言は、直訳すると「キリスト・イエスを宣べ伝えることを彼らは止めなかった」となります。
・使徒たちを中心とした原始教会が、どれだけ迫害を受けようとも自分たちが主に仕えることを喜びとし、絶えず教え、福音を宣べ伝えることを止めなかったことが明らかになってくるのです。
・これは驚くべきことでしょう。しかし主なる神はそのような者として私たちを召し出してくださる方なのです。召し出して終わりではなく、その働きに常に共にいてくださいます。
・しかし御心にかなわなければ、自滅する他ないのです。教会を教会でなくすのは外的な要因ではありません。自滅です。教会を形成する信仰者自身です。信仰者が見るべき神を見失ってしまい、人の思いに支配される時教会は教会で亡くなってしまうのです。
・主に従う群れは、主の御言葉によってのみ立ち続けることができます。そこから離れてはたちゆきません。もし離れているならば、人の思いによる楽しみはあっても、主にある交わりとしての喜びや祝福とは程遠い存在となってしまうことでしょう。
・私たちは主の体としてたつことを真剣に祈り求めていく共同体です。たとえ迫害の波にさらされたとしても、何に仕えるべきかについて、本日の御言葉が明確にしてくれます。
・地上のむなしい言葉や行いになびくことなく、決して変わることのない主の御言葉に耳を傾け、宣べ伝えていくのです。そして、ただ主のみを見上げる、キリストの体としての教会の歩みを共に進めていくのです。






私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
 テモテへの手紙二1章10節bより

教会全景

   礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
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牧師 阿部 啓(あきら)