集会案内
〇祈り会
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
〇教会学校
日曜午前9時~
〇バイブルカフェ
6月19日(木)10時半~
教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。
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豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!
豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。
聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。
日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝
主日礼拝
日 時 : 5月25日(日) 10時15分~
説教題: 「何をしたか」
聖書箇所 ダニエル書6章4節ー7節
使徒言行録24章17節ー23節
説教者: 阿部 啓牧師
2025年5月18日
「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」
使徒言行録24章16節より
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聖 書 ダニエル書12章1節ー4節
使徒言行録24章1節ー16節
○「真実な訴え」
・公平な裁きとは訴えられる者と訴える者の両方に対する立場や姿勢が公平であることが基本になければなりません。何らかの関係があると判断が歪んだものとなってしまう可能性があるからです。
・そのような際に起こりえるのは買収です。金銭や何らかの報酬を賄賂として与えることで偽りの証言をさせたり、判決を捻じ曲げたりするようなことが起こってしまうのです。
・そんなことを断言していいのかと思われるかもしれませんが、旧約聖書の時代から裁判に関する不正は横行していたようで、レビ19.15-16「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である」とあります。
・このような定めがあるということは、不正が存在していた現実があることを示します。いつの時代にも我が身のかわいさに、様々な方法で真実を捻じ曲げようとする人々がいるのです。
・真実はいつも一つというセリフで人気のアニメがある一方で、真実は人の数だけあるというセリフを聞くこともあります。確認のために少し調べてみると、真実とは嘘偽りないことで、主観が伴います。そして、似たような言葉である事実は実際に起こった出来事を指すとのことでした。
・つまり厳密に言えば事実は一つですが、真実は人それぞれだということです。ある事実もそれにかかわる立場によって真実が変わってしまうことがあるのです。パウロとパウロを訴えたユダヤ人にも同じような真実の違いがあったのではないかとも思うのです。
・事実であるかどうかはともかく、ユダヤ人たちにとっての真実は、パウロが自分たちに敵対する存在であり、何としてでも排除すべき相手だということです。
・一方でパウロからすると身に覚えがない訴えであることは一貫しています。律法を与えられた主なる神ヤーウェを信じ、礼拝し、律法に従って生きていて、神殿を汚すことなど何もしていないことを訴えるのです。
・しかし当然のことながら意見が真っ向から対立すると、事の真相が分からなくなってしまいます。特に善悪の判断をするとなると、どちらも自分が正しいと主張するので、その判断に困難を覚えるのは当然です。
・そのような場合、客観的事実、証拠などによって判断が下されることになるのです。ただ現代の状況を振り返ってみると、多くの情報が寄せられることがあります。そのような情報の取捨選択の重要性が求められるのと同時に、周囲の人々からの発信によって、その出来事を巡る情勢が変化してしまうこともあります。
・聖書の時代は直接の口コミです。そしてその発信源が立場ある人々であると、なおのこと庶民に広く受け入れられていきます。
・それが信仰の事柄であり、信仰の事柄を司る大祭司などが関わっているならば、いわゆる一般信徒は信仰的に正しいことだと受け止め、後押しするのは当然です。力ある立場からの発信によって、また発言力の大きさによって人々の判断や思いが導かれてしまうことが起こってしまうのです。
・そこで、必要だと思われるのはそれぞれの「良心」ではないでしょうか。この良心は倫理的な良い思いだけではありません。神の御前にあって良いかどうかということです。どのような信仰的な思いをもって生きているかです。
・カルヴァンはキリスト教綱要の中で「神の審判に対応して善悪を識別する良心」といっています。これは常に神の目を意識しつつ生きることを指しているといえるでしょう。
○「ユダヤ人の訴え」
・ユダヤ人たちは、自分たちの正義、しかも宗教的な正当性を保つためにローマの公的な裁きの場でパウロについて訴えます。しかし、その内容を見てみると感情が先立ったものであることが分かります。
・2節から8節の発言を見てみるとその半分がフェリクスを称える言葉に費やされています。少しでもフェリクスの気分を良くして自分たちに有利な判決が下されるように働きかけているように見えます。
・またそれだけではなく、明確に示し、納得させることができるだけの証拠を持っていなかったからこそ、これだけの多くの言葉を費やしてフェリクスを称えて、自分たち側に取り込もうとしたと考えられます。
・そして訴えている内容もきわめて抽象的で、感情的なものです。「疫病のような人間」「騒動を引き起こしている者」「神殿さえも汚そうとしました」などと言われていることには何の根拠も証拠もありません。
・疫病の有害さといわれると、私たちは現実に新型コロナウィルスという疫病を経験していますが、その具体的な症状はもちろんのこと、感染拡大の速さに驚かされました。
・そういった意味では、キリストを信じる者の拡大スピードも相まって疫病などと称されたのかもしれません。しかし、これが有害だというのはあくまで彼らの言い分です。
・クリスチャンの生活は神の言葉である聖書に根差すものです。決して社会を混乱させるような騒動を引き起こすことはありません。そのような事実もここに至るまで確認できていません。むしろユダヤ人が敵意をもって向かってくる中で騒動の中心に置かれてしまったパウロでした。
・ここには昨今では炎上と言われるような明らかな誹謗中傷があるのです。ここでも9節に「他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた」とある通りです。あの人も言っているとか、そう言っている人は多いですよという言い回しで自分の発言を正当化しようとしている時は、その発言に気を付ける必要があるでしょう。
・またそのような言葉に惑わされないようにすることも大切です。私たちはいとも簡単に同調してしまいます。一旦同調してしまうと、そこから抜け出すことも難しいものです。たとえ間違っていると分かったとしても、それを認めて謝罪したり、訂正したりするのは簡単ではないことは、言うまでもないのではないでしょうか。
・むしろ、どうにかして自分の過ちを隠そうと躍起になってしまって、更に悪い状況を招いてしまうなどということになっては目も当てられません。引くに引けない状況というやつです。ここでのユダヤ人たちもここまでやってきたのだから、引くに引けない状況も少なからずあったのではないかと思います。
・もちろん「神殿さえも汚そうとしました」という訴えにも、確たる証拠はありません。明確な証拠がないことは「閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます」との8節の言葉から明らかです。
・自分たちでは証拠を提示することができないのです。すべてにおいて裏付けがない中で「閣下御自身で」と訴えているのは、自分たちにはできなかったけれども、どうにかして有罪に持ち込んでほしいとの願いに聞こえてくるのです。
・そのためにフェリクスをおだてて、自分たちに有利な判決を導き出そうと画策しているにすぎないのです。ただフェリクスという人物については不正な裁判をしていたとの記録もあるので、ユダヤ人たちの賄賂を求めてユダヤ人側に立つ可能性に希望をもっていたかもしれません。
〇「パウロの言い分」
・一方のパウロはというと、短いながらも同じようにフェリクスを称える言葉を語りながらもすぐに「確かめていただければ分かることですが」と語り始めます。これは誰の目にも明らかであるとの確信に満ちた言葉です。
・十二日しかたっていないことは、人々を扇動するほどの時間などなかったことを表していると言えます。扇動や騒動を起こすには下準備が必要だということです。しかも信仰理解にかかわることであることを考えると、人々に様々なことを伝え、教えるのに時間を要します。
・そのような準備を経てやっと町全体を動かすだけの説得ができるかどうかという感じでしょう。それもそう簡単にはいきません。もしいとも簡単にできたとすれば、それだけ人々に受け入れられる正しい教えであるとの証しとなるのではないでしょうか。
・そうなると、ユダヤ人からするとこのパウロに負けたと認めざるを得ない状況が生じてしまいます。どちらであったとしてもパウロに不利にはなりません。もしユダヤ人が自分について来たとしても、彼ら自身がこちらを選んだということが十分に可能となるからです。
・そして13節は決定的です。「彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません」。やはり証拠は裁判において重要です。そもそも証拠もなしに訴え出る方が無謀だと言わざるを得ません。
・パウロ自身は信仰的な視点で訴えられるようなことは何もないことを14節の「私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」との言葉によって明らかにします。
・パウロは伝統的な神理解を決して否定しません。むしろ律法と預言者に忠実な信仰者として歩んでいるのです。これは決してその場をしのぐために取り繕った言葉ではありません。
・私たちは自分が助かるために取り繕って、相手におもねり、自分に都合の良い言葉を語ることがないとはいえません。自己保身のために偽ってしまうことがないともいえません。
・それでもパウロが偽っていないというのは「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と告白しているからです。
・この良心は冒頭で確認した通り「神の審判に対応して善悪を識別する良心」です。これは神にすべてを委ねて生きる信仰の応答です。自分の言葉で自分を守ることなど考えていないパウロです。
・彼は福音のために生きています。自分のすべてを神を証しするために用いる覚悟で、伝道旅行を続けてきているのです。そうでなければ、ユダヤ人たちから訴え始められる時点で逃げ出すこともできたはずです。
・それはエルサレムにくる以前から始まっている迫害の現実です。21.13節には「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」との言葉があります。
・ここに確かな覚悟を見て取ることができます。そして覚悟の強さは説得力に繋がります。これほどの覚悟を持つパウロの言葉はフェリクスに身の潔白を表すのに大いに役立ったことでしょう。
・更にその根拠として15節「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」
・ダニエル書の12.2節の「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」との理解はユダヤ人の中の一部、特にファリサイ派の人々に受け入れられている理解でした。
・ただ、ファリサイ派は正しい者だけが復活し、正しくない者は復活しないとすると理解していたようです。
・もしかすると私たちもそのように考えてしまう傾向があるかもしれません。しかし、復活の意味を考える時に正しい者だけではないことが明らかになります。特にダニエル書の言葉を振り返ると、明確に裁きの場が示されます。
・「永遠の生命に入る者」と「永久に続く憎悪の的となる者」という両極端な存在です。信仰に目覚めた者とそうでない者には全く違う結果が示されるのです。
・そうなると善い行いに努めようとする思いが生まれてきそうですし、善い者が、善人が天国に入ることができるといわれた方が分かりやすいかもしれません。しかし、それは違います。
・パウロが語る良心、良い心の意味を思い返してください。「神の審判に対応して善悪を識別する良心」です。神の御前にあっての善悪です。それは私たち自身で判断できるものではありません。
・たとえ自分で完全な信仰者として生きているとの自負を持っていたとしても、それが神さまによって良いものとされる根拠となるかと言えば、それは分かりません。裁き主であるキリストにお任せするしかありません。
・神の裁きを覚えながら生きる時、裁きそのものは必ず訪れるとの確信が与えられます。そこで「永遠の生命」と「永久に続くの憎悪」とに分けられるための裁きに立たされるのです。ここに救いだけではなく滅びの現実があることを突き付けられるのです。
・しかし、ここでこそ私たちは希望を失いません。滅びの判決から救い出してくださる救い主であるキリストを知らされているからです。厳しい裁きを恐れる時、この恵みの豊かさがより大きいものとして示されるのです。
・裁き主と救い主が同じであることを知らされるならば、福音が真の良き知らせであることに思いを向けさせられるのです。私たちを救うことを決して諦められないイエス・キリストのお姿を知らされているからです。
・キリストの福音を携えて生きる信仰を与えられている者は、最後の審判の裁きの場に立たされたとしても、滅びの恐れに苛まれることはありません。十字架にかかってまで救いの道を示してくださったキリストです。このお方を信じる者が見捨てられるはずがありません。
・その時私たちは最後の審判の時に復活させられて、主の裁きを受ける時も救いの確信と希望をもって進み出ることができるのです。
・そしてこの希望と確信は地上に生きる私たちの生活に確かな力を与えます。主の目が今もあなたに注がれているのですから、この主なる神の視線があることを知っている信仰者は神と人とに誠実に生きることに努めていくからです。
・そして終末の時はいつ訪れるのかは誰にも分かりません。そのための備えの日々、つまり御言葉に聞き続ける礼拝を中心とした歩みを私たちは共に進めているのです。
私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。 |
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今週の聖句
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編98編1節より |
教会全景

礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
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