ホーム  ニュース 私たちの教会は  礼拝案内  集会案内  アクセス 


 
  基本信条と信仰告白
  2024年度の歩み
  み言葉への招き
  豊橋旭こども園
  リンク 東海連合長老会 
       
集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
5月16日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

ペンテコステ主日礼拝
日 時 : 5月19日(日) 10時15分~
説教題: 「語り始める」
聖書箇所  エレミヤ書1章4節-8節
      使徒言行録2章1節-13節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年5月12日
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」
             使徒言行録13章16節より


〇「続けられていく宣教旅行」
・パウロとも呼ばれていたサウロは、先輩であるバルナバに捜し出されて、教会のために働き始めたことが11.25,26に書かれていました。
・この二人の関係は明らかに先輩後輩の関係です。使徒言行録でもここに至るまでの記述ではバルナバとサウロという順序で描かれていました。
・しかし、12.19でパウロという名前が出てくると、彼の働きの豊かさが際立ってきます。呼び名の変化と共に働きの変化や関係性の変化が生じているのです。
・特に本日の冒頭を見ると「パウロとその一行」とあり、14節でも「パウロとバルナバ」とあるように、書かれる順序が逆転していることが分かります。
・逆転というと優劣があるように思えてしまいますが、決してバルナバが衰えたとか、パウロが劇的に力をつけてきたとかいうことではないでしょう。
・それぞれに与えられている働きの違いが明確になってきているのと、彼らがおかれている状況の変化ということが合わさってのことだといえます。
・それは異邦人伝道という働きであり、異邦人の地域に向かって旅をしている状況にあるということです。バルナバは力ある素晴らしい信仰の指導者であり、「慰めの子」と呼ばれていたことから良き牧会者だったことが十分に想像できる人物です。
・しかし、パウロの名前が優先して語られるようになったのは、パウロの方が異邦人に対して語るべき言葉を持ち、加えて相応しい言動をなすことができた伝道者だということです。
・直前に記されていた魔術師エリマに対する厳しい対応と言葉からもこのことは明らかです。その土地の風習や権力におもねることなく神の御言葉の正しさに基づく言動に長けているのです。
・その一貫した御言葉に従う言動によって、地方総督が信仰に入ったことが記されていました。これは驚くべき出来事であると同時にパウロに与えられた賜物が何であるかをはっきりさせる出来事であったことに違いありません。
・キリストを知らずに過ごしてきたユダヤ人のみならず、律法から遠く離れ、旧約聖書にもあまり親しみを持たない異邦人に向けて福音を宣べ伝え、証しする伝道者としての賜物です。
・この賜物を携えてパウロとその一行は旅を先に進めていくのです。目的地はピシディア州のアンティオキアでした。キプロス島から北上したところにある今のトルコに位置する街で、シリアのアンティオキアとは別の町です。
・13章の冒頭に登場するのはシリアのアンティオキアで、そこからキプロス島にわたり、更に大陸に戻ってきたのです。今この行程を旅しようと思っても、それほど簡単な道のりではないでしょう。けれどもそのような苦労には一切触れず、パウロの宣教旅行は進められていきます。
・さらに詳細に触れられませんが、ヨハネとの別れが記されています。彼は「帰ってしまった」と表現されるように、同意の上で旅から離脱したわけではないようです。この出来事は15章でパウロとバルナバが袂を分かつ伏線となる出来事です。
・それでもここでは、深く追及したり、引き留めたりすることなく旅は進められていきます。ヨハネの存在よりもピシディア州のアンティオキアの会堂での働きが優先されています。
・人間関係よりも、伝道の業の方が優先されているというべきでしょう。ただここでの会堂は当然のことながらキリスト教会の会堂ではなく、ユダヤ人の会堂です。
・今からパウロたちによってキリストが証しされるからです。その備えとして会堂で話す機会が与えられるのです。そして、人々から会堂で話すよう乞われるのはパウロの経歴があってのことです。
・パウロは22.3で「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」と言っています。
・彼が自身の師と認めるガマリエルは5.34では「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人」と紹介されています。
・恐らくこういった師弟関係が伝わっていて会堂長たちはパウロたちに人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と要請したのでしょう。
・パウロからすると願ったりかなったりといった状況でしょうか。キプロス島でもそうでしたが、パウロはユダヤ人会堂で話すことから始めていました。
・それは旧約聖書の言葉を知っている人々に対して、預言の成就としてのイエス・キリストを語ることが目的でした。旧約聖書の神の言葉を下地として持つ人々に対して語り始めているのです。

〇「神の救いの歴史」
・そこでパウロは「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」と語りかけます。イスラエルの人たちとはユダヤ人、神を畏れる方々とはまだ改宗はしていないけれども会堂に集まって、神の言葉に耳を傾けていた人々でした。
・旧約聖書から続く神の救いの歴史をすでに聞いている人々が目の前にいるのです。しかもパウロは律法の厳しい教育を受けたというほど精通しているわけですから、彼らに対して相応しい言葉を持っていることが分かります。
・そこで、イスラエルの歴史における代表的な救いの出来事を振り、出エジプトの出来事から始めて、神の救いの歴史の一貫性を確認します。出エジプトの出来事は知らない人はいないほど神の民イスラエルにとって、大きな救済の出来事です。
・荒野での四十年は厳しい歩みでした。人々は神に立ち帰る姿と逆らう背信の姿を繰り返しました。そもそも四十年間荒れ野で過ごすことになったのも、主の御言葉に従わなかったことに端を発します。
・この時に従わなかった世代の成人は、ヨシュアとカレブの二人を除いて、すべて四十年の間に死ぬことになります。逆らった世代の次の世代が、カナンの地に入ることを許されるのです。
・しかしそれも簡単な話ではありません。もともと住んでいる民族がいるからです。ここでは様々な戦いがありましたが、神はカナンの地を嗣業の土地として相続させるために七つの民族を滅ぼされたことを確認します。これは出エジプト記からヨシュア記にあたる物語です。
・更にその後の時代として語られる「サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました」とは士師の働きを指します。王はいないけれども、指導者がたてられた士師記の時代です。
・その後、民の求めに応える形で王がたてられます。これはサムエル記の物語です。イスラエル最初の王はサウル王です。しかし神の御心に背くことになり、ダビデが王としてたてられることになります。
・このダビデもまた紆余曲折を経ることになりますが、神に祝福された偉大な王として後世に伝えられ、現代でもこの名前くらいは知っているという人がほとんどではないでしょうか。当然ユダヤ人会堂に集まっている人ならば、知らない人いない存在です。けれどもその後、イスラエル王国は滅亡し、捕囚という厳しい時代を過ごすことになります。
・そのような捕囚の中でも、神の民であるイスラエルは希望を完全に失うことはありませんでした。必ず主なる神の憐れみによる救いが訪れることを信じ、律法を神の言葉として重んじつつ苦難の中を生きていきます。
・そして、捕囚から解放されて、国を再興することに繋がっていきます。これはローマの支配下にあった当時のユダヤ人によっても希望の一つだったことでしょう。
・ただ、パウロはそこに触れるのではなく、ダビデから救い主イエスに繋がるダビデの系図に触れるのです。それは、イスラエルの歴史を貫く神の救いの出来事がイエス・キリストに集約されるからです。
・旧約聖書において民の中に示されるすべての出来事は、イエス・キリストに向かっているのです。地上に生まれ、十字架で死なれ、復活、そして天にあげられたイエス・キリストこそ神の救いだとパウロは明らかに伝えているのです。
・そのため、神は主イエスを送ってくださったとまで明言するのです。神の救いの約束はイスラエルの人々の支えであり、希望です。そして今この時旧約聖書における希望をもって生きている民がユダヤ人です。
・しかし、神さまは時に応じた形で御心を示し、行なってくださる方です。人間の思いによって理不尽に命が奪われるような争いがあってはなりません。
・私たちの世界の現実を思う時、社会的にも個人個人でも目を覆いたくなるような現実があることを否定できません。それは人の生死に限らず関係性や、不誠実な姿などあらゆる形での悲惨さが表れているような現実があるからです。
・しかも、主イエスを送ってくださったことを知らされるならばなおのことです。あの十字架の出来事を通して示される救いは私たちのすべてが神と共に生きるためのものでした。それなのにこの現実はどうなのかと嘆きを覚えてしまいそうです

〇「キリストによる救い」
・それでも、神の救い、救済の歴史がイスラエルという民族固有のものとしてではなく、全人類に向けられていることを思わされます。
・それは救いの御業よりも先に人間の罪の現実があるからです。私たちは誰も罪の現実から逃れることはできません。そのような罪の中に生まれているからこそ、あらゆる苦難が伴うのです。
・誰もが神の思いに聞き従うことができるのであれば世界に苦難はなくなるでしょう。けれどもそうではない罪を誰もが持っているということです。
・原罪という言葉がありますが、これは、非常に大まかにいうと、私たちは人として生まれた以上、神に対する罪を持っている存在であるということを意味します。
・そして罪と死に支配された人生が私たち人間の命だといえるでしょう。しかし、この罪と死を知らされる時、そこからの救いを求める者とされるのが信仰への気づきです。
・私たちが本当に生きるために、神が共にいてくださることを真剣に求めることに気づかされるのです。生まれながらに私たちは罪と死の支配に置かれているようなものですが、キリストによってそこから救い出される信仰の道が備えられているからです。
・罪の歴史の中を生きているような私たちであっても、そこに並行して救済の歴史を刻んでくださる神さまがいてくださいます。そのためにイエスさまを地上に遣わしてくださいました。
・パウロは洗礼者ヨハネの言葉も引用して、イエスさまこそがまことの救い主であることを証言します。それはイエスさまだけが地上に生きた人として罪と死の限界から解放されている方だからです。
・人の罪を全く持たない方が地上に生まれてくださり、十字架にかかってくださったのです。本来であれば、神に対して罪を全く持たず、苦しみや死を経験する必要がないお方が、神の救いのご計画の中でイースターの出来事を成し遂げてくださったのです。
・つまり私たちの身代わりとして十字架に死に、復活してくださり、罪を取り除いてくださったのです。ここに旧約聖書以来一貫して全人類に向けられている神の救済の歴史が完成されるのです。
・私たちのすべての苦しみを引き受けて、なお勝利してくださる特別な死と復活をイエスさまは私たちに与えてくださったのです。
・この神の愛と憐れみによって生きる新しい命が与えられることを、私たちは信じていますし、今ここに神の御言葉による希望に満たされた新しい一週間を歩み始める恵みを確かに受け取るのです。
・たとえ深い悩みや苦しみの中にあったとしても御言葉による希望は決して失われることはありません。あなたを生かすまことの光として導き続けてくださいます。













私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書12章32節より

教会全景

   礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
 このホームページに引用される聖書は「聖書 新共同訳」であり、
その著作権は以下に帰属します。

(c)共同訳聖書実行委員会 
 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

© 2020 Toyohashi Chubu Church
  〒440-0864 豊橋市向山町字七面89-1 
日本基督教団 豊橋中部教会
TEL :0532-52-6894
MAIL:kyoukai@toyochubu-ch.org 
牧師 阿部 啓(あきら)