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集会案内

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~


〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
11月28日(木)10時半~


教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

主日礼拝 
日 時 : 11月 24日(日) 10時15分~
説教題: 「あざ笑う者、信じる者」
聖書箇所  詩編 22編 2節-12節
      使徒言行録 17章 30節- 34節
説教者:  阿部 啓牧師



         2024年11月 17日

「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」           使徒言行録 17章27節より


聖 書  イザヤ書  44章 9節- 20節
     使徒言行録 17章 22節-29節

○「パウロが憤慨する理由」
・アレオパゴスにはアレスの丘という意味があります。このアレスはギリシア神話のオリュンポス12神の一つの神の名前です。アテネの町の名前の由来も同じ12神の一つであるアテナに由来するとのことですから、ギリシア神話がどれだけこの土地に密着しているかが窺い知れます。
・パウロは「あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」と語りかけます。この背景には12神のみならず彼らにまつわる物語に登場するあらゆる神々の存在があり、それらの偶像を作り、拝んでいるようなアテネの状況があります。
・16節を振り返ると、このような状況こそパウロが憤慨した理由でした。偶像の存在そのものよりも、人々がまことの神ではないものを拝んでいることに憤慨しているのです。神を拝もうとする信仰があるならば、まことの神を拝まないことはあり得ないのです。
・ギリシア神話の神々はあくまで神話に登場する存在です。神話は人の思いを満たすために作られるものです。人の状況に応じるために様々な神々の存在が増えてくるのです。
・そこで「知られざる神に」と刻まれている祭壇が登場しているといっても良いでしょう。神話が人によってつくられたと考えると、人の必要に応じてあらゆる神が創作されます。アレオパゴスの由来となったアレスは戦いの神でした。アテネの由来となったアテナは知恵の女神でした。
・他にも人間の生活に不可欠なものに対する願いのあらわれとして神の存在が創作されています。そうなると時代が変わり、求めが変わると新しい神の存在が出てくるといっても過言ではありません。新しい文化が生まれると新しい神が誕生するというのは言い過ぎかもしれませんが、十分に理解できると思います。
・これは私たちの日本社会にも通じることです。ご利益がありそうなものはすぐに神格化されたり、祭られたりするからです。先日テレビを見ていたら、レーシングカーで大クラッシュしながらも運転手が無事だったことから、その事故車をまつって個人的に神社にしてみたところ、車好きの人をはじめ参拝者が出てきたといったことが放送されていました。
・そうなるとなんでも神として扱われてしまう状況になります。人の思いを満たすための存在が神であると勘違いされてしまうのです。これにパウロは憤慨するのです。神は人の思いや欲求を満たすために存在するのではないからです。
・そもそもイエスさまご自身の姿を振り返る時、神を礼拝する神殿が人の思いで満たされることに強烈な怒りを示されました。この宮清めの記事はすべての福音書に記されていますが、特に印象的なヨハネによる福音書から紹介します。
・ヨハネ2.13-16「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」」
・ここでイエスさまは商売自体を否定されているわけではなく「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われていることに注目しなければなりません。父の家は神殿です。神殿は神を礼拝する場所であり、神の御心を祈り求め、神の御心で満たされるべき場所です。
・その場所が人の稼ぎに対する思いで満たされていることに憤慨されているのです。その姿たるや半狂乱といっても良いほどのものです。いや真顔で鞭をふるい、犠牲の動物を追い出し、両替人の金をまき散らしておられたのであれば、それを見る者にもっと恐怖を与えたかもしれません。怒りの感情丸出しで怒られるよりも、真顔で怒られる方が怖いと思いませんか。
・実際にはどのような表情をもってイエスさまが宮清めをなさっているかは分かりませんが、どれほどの怒りを持っておられるかは読む者すべてに伝わります。イエスさまの怒りの要因は神を礼拝すべき神殿が人の思いで満たされている、神に向けられるべき思いが見当違いの方向に向かってしまっているところにあります。
・パウロもまた同じ視点で憤慨しているのです。なぜあなたたちは信仰のあつさを持っているのに、まことの神を見ようとしないのかと憤慨するのです。誤った道を進んでいる者を叱責するのと同じです。
・わが子を危険なことから遠ざけるのに、その入り口で厳しく叱りつけることがあります。車が激しく往来する道路に飛び出したなら、そこでけがをしなくとも厳しく叱ることでしょう。生死にかかわることである以上当然のことです。
・そしてそれが真剣であればどれほどきつく叱ろうと、相手に伝わります。いや伝わるまで徹底して伝えようとするはずです。事故に遭ってからでは取り返しのつかないことになりかねないからです。
・神話の神々の偶像の存在うんぬんよりも、まことの神以外のものを神として拝むことに憤慨し、そのような状態から救われてまことの神と共に生きることを真剣に求めるパウロなのです。それこそが人間が本当に生きる道だからです。神から離れたままでいるのは命の危機なのです。

○「信仰のあつい人々に向けて」
・それでもパウロはあてもなく手当たり次第に誰にでも語りかけているわけではありません。パウロはアテネの住民を評して「信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と言います。
・それほどアテネの人々の多くが神的なものを求める姿を持っていることを認めます。そして、それが人の思いから生じていることを論証していくのですが、これは信仰と信心の違いとしてしばしば言われることに通じます。
・信仰とは信じて仰ぐことです。それは神を信じて、神を仰ぐ礼拝生活に繋がっていきます。一方信心は信じる心です。この心は人それぞれの内にあるものです。つまり信じる心は人によって違うのです。
・この違いから、信仰は神が中心である一方で、信心は人間を中心としていることが示されます。キリスト教信仰は一貫してキリストに委ねる信仰です。それは神中心の人生です。神中心に生きるところで、人それぞれの思いや生活が導かれていきます。
・決して一人一人が無下にされるのではなく、神中心に生きるところで、まことの命を生きる希望と確信が与えられるのです。むしろ神から離れたところにいるままでは死に支配されたままであり、その状況に置かれたままであることが危険であるとパウロは憤慨するのです。
・そこで用いられるのが「知られざる神に」と刻印された祭壇でした。これは現状では思い至っていないけれども、これから出てくるかもしれない必要を満たすものを想定しての表現ですが、パウロはここからまだアテネでは知られていない本当の神を証しするのです。
・天地万物を創造され、支配されておられる全能なる神さまのお姿です。しかし、ギリシア神話が背景にあり、その最高神ゼウスは権力闘争を経てその地位に就いたのであって、創造神ではありません。だから一人の神がすべてを創り、すべてを支配しているということに理解が追い付かなかったのではないでしょうか。
・しかしそれこそ「知られざる神」として、まことの神ヤーウェを宣べ伝える絶好の機会として捉え、伝えようとしているのです。あなた方が知らない本当の神について、人の世界に収まることのないまことの神を知ってほしいのです。そんな思いに満たされて信仰心のあついアテネの人々に語りかけるパウロです。

○「人の手を必要としないまことの神」
・彼らの信仰心のあつさは、神々の像や神殿などから見ても明らかだったのですが、そこから切り込んで、人の手によって作られたものに収められるような神ではないことを証しします。
・立派な像や神殿を作りたいと願うのは実は人間です。自分が信じる存在を肯定し、より立派に見せたい思いのあらわれではないかと思います。また、自分が造った神殿にいてほしい、少しでも自分の近くにいてほしいという思いもあるかもしれません。
・しかし、創造主なる神さまが人の手で作られたものに住む必要はありません。ましてや人の助けによって欠けを補ってもらう必要もありません。全知全能の神ですから、神は神なのです。人を助けることはあっても人に助けられるような頼りない姿は一切ないお方です。
・立派な神殿や像を建てたいと願う人間の思いは、少しでも神の役に立ちたい、神に認められたい、そしてよい褒美が欲しい、見返りがあるはずだという思いがあるのではないかと思います。そういった思いはやはり人間中心の思いから生じるものです。
・人の思いの中で収められる神であれば、その時点で人が神の上に立っていることに気付かなければなりません。だからこそ、「手で造った神殿などにはお住みになりません。」「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」と断言するのです。
・さらにこの世界のすべてを創造し支配されている神を証言します。命のすべて、自然のすべて、人間を含めて地上のすべてを創造された神であり、それらを秩序付けられたことにより、私たちはこの世界のあらゆることから神を知ることがゆるされるのです。
・それは自分たちが思い描く神を求めるのではなく、自分たちを創造された神を求めることです。目に見える世界のあらゆる事物、事象を神とするのではなく、世界の一つ一つを作り上げて、支配しておられる神を信じ、仰ぐのです。
・聖書は一貫して人の手によって作られたものに収められることのない神のお姿を語り示します。神を神として信じることを示します。パウロは強引にもギリシアの詩人の言葉を引用してこのことを明確に伝えようとします。
・「我らは神の中に生き、動き、存在する」「我らもその子孫である」という言葉です。強引にもと言ったのは、ここで言われている神はギリシア神話の最高神であるゼウスを指していると考えられるからです。
・それでもパウロはこの言葉を引用し、神を主なる神ヤーウェに置き換えて語ります。少なくともあつい信仰心を持つ人々が相手です。彼らに少しでもまことの神との出会いが与えられればといった思いでこのようなやり方をしているのです。
・「わたしたちは神の子孫なのですから」という言葉は、彼らの自尊心をくすぐるものだったことでしょう。それ以上に信仰心をよりあつくさせるような一言だったのではないでしょうか。
・けれども自分たちが信じているものとパウロが語る神との決定的な違いが示された今、それをどう聞くべきか迷い始めるのではないかと思います。本当に神はこの神殿におられるのか、自分たちが作った像を拝むことが本当に神との関わり方として正しいのか、などと迷わせ、考えさせることをパウロは語っているのです。
・私たち自身もそのような思い悩みの中で信仰に導かれていく経験を持っているのではないでしょうか。キリストがパウロと出会ってくださったことも同じような経験の一つです。
・イエスさまをまことの救い主と信じる信仰に導かれる時、必ずキリスト御自身が一人一人と出会ってくださいます。その場所は限定されたところではありません。いついかなる時であろうとどのような場所であろうと、神が定められた時に出会ってくださいます。
・「神が出会ってくださるところ」それが「神がおられるところ」なのです。人が作った建物や像の中に閉じ込められるような方ではありません。偶像はあくまで偶像です。神は神です。地上の何物にも縛られることのないお方です。
・そもそも地上の世界を創られた方です。自分がお創りになったところを自由に行き来することは当然です。そしてそこに存在するあらゆるものをも自由に用いられることも自然なことです。
・私たちは創造主なる神さまに創造され、神さまのことを知らされる恵みを与えられ、神さまを信じる信仰を与えられます。それは自分で頑張って手に入れる信心ではなく、まことの神を信じ、仰ぎ、委ねる神さまを中心として生きる確かな恵みの人生です。あなたが神さまと共に生きる時、あなたのいるその場所こそが神がおられる所となるのです。


私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。


今週の聖句 
わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
 コリントの信徒への手紙二
           5章10節より

教会全景

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牧師 阿部 啓(あきら)