集会案内
〇祈り会
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~
〇教会学校
日曜午前9時~
〇バイブルカフェ
4月24日(木)10時半~
教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。
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豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!
豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。
聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。
日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝
主日礼拝
日 時 : 4月6日(日) 10時15分~
説教題: 「主に用いられるパウロという人物」
聖書箇所 サムエル記下16章5節ー14節
使徒言行録22章17節ー29節
説教者: 阿部 啓牧師
2025年3月30日
「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」
使徒言行録22章16節より
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聖 書 詩編107編17節ー22節
使徒言行録22章6節ー16節
○「パウロだけに語りかけられたキリスト」
・パウロの回心の出来事は使徒言行録9章に記されていました。パウロの回心ついて聞く時に、常に覚えていていただきたいのは、回心という語の漢字の違いです。
・一般的に「かいしん」というと心を入れ替える「改心」を思い浮かぶ方が多いのではないかと思います。パウロの姿を振り返ると、それまでの迫害者としての歩みを悔い改めて、思い新たに生き始めると見えるかもしれません。
・しかし、パウロの「かいしん」という時には、「回心」です。心が回転させられたからです。それまで中心としていたことを捨てさり、キリストを中心とする者として新しく生き始めることになったのです。
・そこで起こったのが心が回転する意味での回心の出来事です。これはキリストを信じる者すべてに与えられる時です。キリストを受け入れ、信じ、信仰を告白し、信仰者として生き始める時に、必ず経験するからです。
・ただ誰にでもパウロと同じような劇的な経験が与えられるわけではありません。キリストとの出会いは人それぞれに与えられるからです。それが誰の目にも分かるような劇的なものであったり、日常の中でいつの間にか示されていたりするからです。
・同じ場所で同じ経験をしていたとしても、人によってその出来事の受け止めが全く違うことがあるように、自分にとってはあの出来事が大きなきっかけとなったと思うことが、一緒にいた人には何の変哲もない出来事だったということがあり得るのです。
・こういったことはパウロの回心の出来事の際に周囲にいた人々の反応からも確認することができます。彼らとパウロの経験は全く違うものでした。
・パウロは強い光に照らされて、主の言葉を聞きました。しかし9節には「一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。」とあります。
・9.7に「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。」とあるのと比べると、描写が違うと指摘する方もおられるかもしれません。
・確かに違いがありますが、間違いではないとみるべきです。聖書の細かな部分を見ていくと、描写の違いはたくさんあります。同じ場面でも言動に違いがある部分が少なからずあるからです。
・しかし、それらは証言の豊かさと言えます。一つの事柄を様々な視点で語っているということです。それでも語られている本筋が一貫していることが重要です。
・ここでも、声が聞こえているかどうか、が問題となるのではなく、同行者がいる中で強い光に照らされて、主の働きかけによる特別な出来事をパウロだけが経験していること、つまり、パウロと同行者とでは明らかに違う経験が与えられていることが記されていることに意味があるのです。
・同じ場所で、同じ時に、同じ場面に出くわしたにもかかわらず、そこで経験したことが全く違うのです。キリストはパウロのためにこの時と場所を用意して用いてくださったのです。
・そしてキリストからの呼びかけに応える形で、パウロははっきりとキリストの声を聞き、その言葉を受け取ることになります。パウロにだけ語りかけられるキリストのお姿がここにあるのです。
・このような姿は私たちにも起こり得るものです。思いがけない形で主との出会いが示されたり、主の御心が示されたりする経験が与えられるからです。大勢の中の一人だとしても、自分だけが聞き取るような経験です。
・あまりに経験を前面に出すつもりはありませんが、恐らく同じ説教を同じ礼拝で聞いたとしても、そこで受け取るメッセージは人それぞれだと言えば分かりやすいでしょうか。
・それぞれの置かれている状況で、同じ言葉を聞いても全く違う受け止めとなったり、導きが示されたりすることがあることは分かっていただけるのではないでしょうか。
・そのような時には間違いなく、主が自分に向けて語りかけてくださった言葉として聞かざるを得ないのです。そしてそのような言葉は自分が求めていることへの答えのように示されることもあれば、思ってもない形で示される言葉もあります。
・信仰者は誰もがそのようなキリストの言葉との出会いによって変えられています。従って、回心の出来事はパウロだけに与えられた特別な出来事であると同時に、一人一人の信仰を呼び起こす出来事として、キリストと出会うための特別な語りかけによって変えられる時なのです。
○「何を変えられるのか」
・そして変えられるとは、それまでとは違った姿となる事を意味します。パウロの場合、律法主義者で迫害の先頭に立っていました。4節では「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」とあるように強烈な迫害者だったことが伺い知れます。この道と言われているのはキリストの道ですからキリスト教会への迫害です。
・そんな敵対者であった人物が仲間に加わることになるとすれば、仲間であることを何らかの形で保障されなければ、受け入れることは難しいものです。「昨日の敵は今日の友」などと言われますが、もしそれが命を奪ってまでも迫害しようとしていた人物ならば簡単なことではないでしょう。
・何らかの形で変わったことを示してほしいと要求されても仕方ありません。特に犯罪の類を起こした人物がその当事者の信頼を得るためには相当の努力が必要であることは容易に想像できます。
・たとえ加害者本人が本気で反省し、変わる気があったとしても、被害者側からすると簡単には信じられないでしょう。そういった場合には継続して反省の姿勢を示し続けることが求められるのではないでしょうか。
・そういった私たちの感覚からすると、パウロにも反省して償いの姿勢を見せてほしいと思ったり、反省を信じることができずに距離を保とうとしてしまったりするのです。
・ここに登場するアナニアも同じような反応を示します。主からサウロを訪れるように命じられた時に9.13-14)で「「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」」と答えます。
・キリストを信じ生きている者であることを知られたら殺されてしまうかもしれないと予想できるような相手は、どう考えても恐ろしい存在なのです。絶対に会いたいくない人物なのです。
・けれども、サウロには主の御業が行なわれていました。光によって目が見えなくされていました。しかも9.12では「アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」とまで示してくださっています。
・アナニアもまた、ここで人間的な恐怖から逃げ出すのではなく、主の言葉に従い遣わされる者として変えられたといっても良いでしょう。そして、何よりもここに主の選びと備えがあることをはっきりと示されます。12節に「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした」とあります。
・9章にはなかったアナニアの人物像を示す言葉がここで加えられています。立派なユダヤ人キリスト者だったというべきでしょう。律法主義者として生きてきたサウロにとって、キリストを信じることはあり得ないことでした。その拒否感から迫害者の先頭に立っていたのです。
・けれども自分のために遣わされたアナニアは、律法とキリストの福音に生きる信仰生活を両立する人物でした。サウロの状況を考えるとこれ以上ない適任者です。
・主のみ言葉によって彼の目を開き、見えるようにするだけではなく、信仰的にも律法と福音に生きる生活ができることを示す信仰の目を開く役割をも担ったからです。
・そして何よりも、注目すべきはパウロに反省が求められることはない点です。これまでの振る舞いを考えると、キリストとキリストを信じる信仰者、キリスト教会に対して明らかな罪を犯してきたサウロです。
・それでもその罪を反省して悔い改めを求めるような言葉はどこにも記されていません。反省や悔い改めは自分の犯した罪の現実に向き合うところで生まれる思いです。
・このことと合わせて、反省が求められていないことを考えると、キリストの目的はサウロの罪の現実を責め立てることではなく、罪の中を歩んでいたサウロを全く別の生き方に変えられることだったことが示されます。
・それはパウロ自身がガラテヤ2.20で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と告白していることからも示されます。
・古い自分は死んで、新しくキリストのものとして生き始めるのです。人間的な感覚で見ると、悪事を働いて反省もなく、罰も受けることなくのうのうと過ごすのは許せないと思うかもしれません。
・それでもキリストに対する罪ですから、キリストの裁量にかかっているのです。完全な許しを受けて迫害者であるサウロは死んだのです。そして新たに目を開かれた新しい者、パウロとして生き始めるのです。
・ここにキリストによる圧倒的な恵みによる罪の赦しがあります。パウロと同じようにキリストから離れたところに生きていた私たち一人一人にも、この罪の赦しが与えられて、信仰の歩みが備えられているのです。
・しかし、パウロの歩みが平安な日々ではないことは9.16の「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」との言葉から示されるのです。
・これは決して迫害に対する刑罰ではありません。あれだけひどいことをしてきたのだから、罰として苦難の日々を過ごさなければならないということではなく、徹底して主に仕える者とされるのです。
○「罪を赦された者として」
・主はご自分の働きに遣わされるためにパウロを選ばれました。この選びとは語源を辿ると、前もって選ぶということになります。場当たり的に選ぶのではなく、既に選ばれていたということです。
・母の胎にいる時から、誕生しガマリエルのもとで教育を受け、律法を習熟し、迫害の先頭に立っていたことも含めて、ここに至るまでのすべてが主の召しに応えるための備えの時だったのです。
・14、15節ではアナニアから告げられた言葉として「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。」と語られたことが確認されます。
・「あの正しい方」「その口からの声」はそれぞれにキリストとその言葉を意味します。さらに「すべての人」に対するキリストの証人となる事に言及されます。ユダヤ人のみならず異邦人を含めたすべての人にキリストの福音を宣べ伝える働きのために選ばれているのです。
・パウロのこれまでの日々は異邦人社会で伝道するための備えなのです。行く先々で文化の違いもあることでしょう。それを理解したうえで伝道できるかどうかは大きな違いを生じさせることでしょう。
・Ⅰコリント9.19-23には「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」とあります。
・素地があったからこそ、相手に応じてふさわしい態度で福音を宣べ伝えることができたパウロだったのです。しかし、それが決してテクニカルな表面的なものでなかったことに目を向けなければなりません。
・「何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言われていました。15節で「すべての人に対してその方の証人となる者」として選ばれているパウロの現実です。福音宣教のためなら、なりふり構っていられないのです。
・16節には回心の出来事の締めくくりの言葉として「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」と記されています。
・主に選ばれた者として遣わされることをためらうことはないのです。遣わされるためにイエス・キリストの名によって洗礼を受けるのです。そして、キリストによって罪を赦されて、伝道者として遣わされていくパウロが誕生しました。
・律法を守ることに生きる人間的なサウロから福音に生きる信仰的なパウロに変えられたのです。これはキリストの十字架によって生まれ変わらせていただいた信仰者の姿です。
・ガラテヤ5.24には「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」とあります。特にレントの日々を過ごしている私たち教会の歩みです。
・人間的な肉の思いにとらわれるのではなく、神の霊によって良き実を結ぶ者として生きる者に変えられることを信じ、信仰の道を喜び歩んでいくことができれば幸いです。
・この道は人であることを捨てるのではなく、神と共に生きる道こそが人が人らしく生きる最上の道であることを知らされている人生です。神に愛され、神と共に生きる幸いが確かに示されるのです。
・主はあなたの思いを神の方へ向けてくださいます。そして向きを変えられた者は、神に背く罪を赦されて、神と共に生きる恵みに満たされます。そしてその恵みを少しでも伝える者として遣わされていくのです。
私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。 |
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今週の聖句
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12章24節より |
教会全景

礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
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