ホーム  ニュース 私たちの教会は  礼拝案内  集会案内  アクセス 


 
  基本信条と信仰告白
  2023年度の歩み
  み言葉への招き
  豊橋旭こども園
  リンク 東海連合長老会 
       
新型感染症関連
感染症予防対策継続して、以下のとおりに集会を開催いたします。ご理解頂きますようお願いいたします。
〇マスクの着用。
〇入退場時に手指の消毒にご協力ください。
〇常時換気をしています。
〇来会前には検温し、平熱より高かったり、体調がすぐれない場合は来会を控えてください。

〇祈り会 
毎週水曜日
午前10時~、午後6時半~

〇教会学校
日曜午前9時~

〇バイブルカフェ
4月25日(木)10時半~

イースター関連
〇3月31日 10時15分~
イースター主日家族礼拝
礼拝後~13時頃
イースター祝会

〇3月31日 8時半~
イースター早天子ども礼拝
礼拝後:
イースターエッグ探し



教会での礼拝に出席できない場合には、家庭で礼拝予告にある聖書箇所を読み、祈りを合わせましょう。

  豊橋中部教会のホームぺージへようこそ!!

豊橋中部教会は1896年に創立した日本基督教団に属する教会です。また、宗教改革以来のプロテスタント教会で、改革・長老教会の伝統を重んじる全国連合長老会に所属し、その中の地域である東海連合長老会に属する教会です。

聖書の御言葉に聞く礼拝を第一としています。神の御言葉である聖書に耳を傾けることが人生において最も大切であると考えるからです。共に聖書の御言葉に耳を傾け、真の安息の中を歩むことができればと願っています。

日曜日の礼拝でお会いできるのを心待ちにしております。
礼拝出席がかなわない方などは、牧師にご相談ください。

次週礼拝

イースター主日礼拝
日 時 : 3月31日(日) 10時15分~
説教題: 「わたしと会うことになる」
聖書箇所 ダニエル書10章5節-11節
     マタイによる福音書28章1節-10節
説教者:  阿部 啓牧師

         2024年3月24日
「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」
           マタイによる福音書26章56節より


○「本当の親しさ」
・私たちが作り上げる様々な関係があります。場合によっては自らの危険を顧みず、子どもを守るということも起こるでしょうし、成長していくにつれて深い愛情の中で自らのすべてをささげても構わないとさえ思える関係が生じることもあるでしょう。
・また家族以外でも、お互いにそのような思いで過ごすことができる相手が人生の中で一人でも与えられたならば、それはどれだけ幸いなことか分かりません。それでも、もしかすると、自分ではそう思っていても相手はそこまで思っていないという関係もあるでしょう。
・その場合、自分の独りよがりで空回りしてしまったと空しく思うか、それでも深い愛情や友情をもってかかわる相手がいることを喜ぶことができるか、判断は難しい所でしょう。相手からするとありがた迷惑であったり、重荷となってしまったりすることがあるからです。
・どのような関係にしても、関係という以上は自分一人のことではなく、相手が存在することは言うまでもありません。一方通行の関係では良い関係を築くことはできません。
・共通の思いを深めつつ良い関係が作られていくわけです。そのためには時間や経験を共有し、親しくなることが一番ではないかと思います。
・良好な関係の中で親しくなっていくとき、その関係は血縁を超えたものとなっていくことは十分に理解できることだと思います。そして本当に親しい存在は家族関係を超えて互いに思いあって過ごす存在です。
・時と場所、そして目的などを共にする関係は仲間と称されるのみならず、家族と称されたりすることもしばしばです。ことわざにも「遠くの親戚より近くの他人」とあるくらい当たり前のことだといえるものです。
・またさまざまな物語の主題となっていることから、古今東西問わず広く理解されている考え方だと分かると思います。聖書の時代でも同じで、人間関係の基本だといえるかもしれません。
・ただそれが明らかに悪い関係であるならばまだしも、表面上は良い関係であるように言えても、腹の底では真逆のことを考え、自分の利益のためにだけに関係を保とうしているような姿は、裏切り者と呼ばれることから逃れられません。
・本当に親しい関係は裏表や利害関係などなくお互いに受け入れ合うことができる関係ではないでしょうか。そして共通の何かを持っていることが大切でしょう。

〇「親しさから裏切りへ」
・全世界的に裏切り者の代名詞のように知られているイスカリオテのユダです。日本では裏切り者のユダという方が伝わりやすいかもしれません。
・しかし、彼は決して根っからの悪人というわけではないと思います。そもそもイエスさまによって選ばれて従った十二弟子の一人であることを考えると、イエスさまを救い主であると信じている人物であることは間違いありません。
・更に彼はヨハネ12.6では「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」といわれています。ここからイスカリオテのユダの二つの面が示されてくるのではないでしょうか。
・一つは十二弟子の一人としての働きです。「金入れ」つまり財布を預かっていたということです。数字に強かったのかもしれませんが、何よりも周囲から信頼されていた人物であることが分かります。
・お金を預けるに足る人物だと信頼されていたのです。イエスさまと弟子たちは生活を共にしていました。一緒に過ごす時間が長ければ長いほど、その人がどのような人物かが見えてきます。
・親しくなればなるほどその人が何に向いているか、何に向いていないかが分かってくるものです。任せることができること任すべきではないことが分かるわけです。これは心地よく過ごすために思いの外、重要な気づきだと思います。
・不得意なことを無理強いされても、お願いしたことが十分に果たされなかったとしても、悪い結果や嫌な思いばかりが残り、お互いにギクシャクしてしまいます。時間や労力、金銭の無駄遣いということにもなってしまいます。
・しかし、それぞれの特徴を把握して役割分担をしつつということで生活することができれば、皆が気持ちよく過ごすことができることは言うまでもありません。
・そのような親しさの中でイスカリオテのユダは財布を任されたのです。このことは他の弟子たちが彼のことを信頼し、能力を認めていたことの証しです。
・しかし、一方で4つの福音書それぞれにおいてイスカリオテのユダの名前が触れられるとき、イエスさまを裏切る者であることが付け加えられています。その始まりともいえるのが、「金入れの中身をごまかしていた」ことです。
・金の誘惑は誰にも身近なものです。ここでは何に使うためだったのかは分かりませんが、彼は盗人と呼ばれるように、中身をごまかした結果、イエスさまを銀貨三十枚と引き換えに祭司長たちに引き渡そうと機会を狙っていたことがマタイ26.14‐16から確認できます。
・自らの不正を隠すために祭司長たちに近づき、取引をしたイスカリオテのユダだったのです。もう一つの彼の姿が示されます。不正の証拠を握られ、取引の材料にされて仕方なく裏切るというのならば、まだしもという気もしますが、自分から祭司長たちに近づいて行ったのです。自覚的に罪を犯している姿があります。身の保身にしか思いは向いておらず、罪の意識すらなかったかもしれません。
・それでも救い主と信じ、その後に従ってきたイエスさまを引き渡すことなど普通の状況では到底考えられません。自分に置き換えて考えてみてください。寝食を共にして、神の救いという一つの目的のために共に仕えてきた仲間を売り渡す、いや共に過ごしてきた家族を売るという状況がまともな状況であるはずがありません。
・それでも彼は自分の不正が明らかになることへの不安や恐怖に負けてしまったのでしょう。そこで銀貨三十枚と引き換えるのですが、この銀貨三十枚の単位は明確ではありませんが、おそらく旧約に示されているように奴隷一人の対価と考えられます。
・出21.32には「もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない。」とあります。
・もう少し具体的には約120日分の賃金に相当するそうです。その程度の金額のやり取りでしかないのです。どれだけ軽んじられているか、また、イエスさまよりも、神さまの救いの御言葉よりも自分が逃げることだけにユダの思いが向いていることが示されます。
・これこそ悪魔の働きです。イエスさまとの親しい人間関係はもとより、神さまとの関係から目を背けさせる働きが悪魔の働きだからです。私たちの欲望の隙間をついていつの間にか神さまから引き離そうと手ぐすねを引いて待っているのです。
・それは祭司長たちを始めユダと共にイエスさまを捕らえるために集まってきたすべての者に言えることです。そこでなされたことは、接吻をもってなされる裏切りです。表面上は愛情をもって接しているように見せかけ、引き渡す合図としているのです。
・こういった姿を見るときほとんどの人が、ユダのことをひどい人間だと非難したり、自分はそんなことをしたくないと否定的な思いを持ったりするのではないでしょうか。人によっては怒りを覚えたりすることもあるでしょう。
・それはそのままユダに対する評価ということにもなるかもしれません。裏切ることは良くないことと義憤にかられ、許しがたい存在だと認識するのも当然です。
・しかし、同時にユダの姿は決して他人ごとではないことをも思わされるのです。私たちは神さまの前にあって誰もが罪人です。神の御子であるイエスさま以外に神さまに完全に従う正しい人間として生きることができる者はいません。
・確かに次元は違うかもしれませんが、間違いなく罪を持っている私たちであることには変わりありません。手放しでユダを断罪することなど誰にもできません。むしろ自分も同じ穴の狢であることを忘れることはできません。
・あたかも神に従う者のように生きていながら、逆らう者として生きてしまう現実があることから自力で離れることはできません。しかしそのような私たちの罪の赦しのためにこの出来事が引き起こされているのです。

〇「イエスさまの受難の始まり」
・それが主イエスの受難のお姿です。受難とは苦しみや災いを受けることです。しかも全くに身に覚えがない苦しみや災いです。
・自分の言動の結果として受ける苦しみならば罰として捉えることもできるでしょうが、イエスさまは全くそのような罪を犯すことはない方であるにもかかわらず、受難の道を歩まれるのです。
・この受難を受けることになるような言動に身に覚えがないイエスさまですが、ご自分が受けるべき受難の道があることは聖書の言葉の実現としてご存じでした。
・裏切りの接吻をしたユダに対して「友よ、しようとしていることをするがよい」と50節でいわれます。さらに54節では「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」、56節では「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」とのイエスさまの言葉があります。
・神の御言葉のままに地上での歩みをなされるイエスさまです。十字架に向かう苦しみを受けられることもまた、救いのご計画の実現であることがはっきりと示されてくるのです。
・それは聖書全体からも示されることです。人のあらゆる業を超えて示される神の御業があることを知らされるからです。
・ここでのイエスさまを捕らえに来た人々とイエスさまのやり取りからは、通常であれば、公の力を持つ側が権威をもって働きかけ、その場を支配するものです。
・けれどもこの場面を権威ある言動で支配的しているのは、明らかにイエスさまです。暴力的な人々に対して、剣が意味のないものであることばかりか、神の圧倒的な力があることを示しています。
・言い換えれば、あなたたちを神にたよって打ち倒すことは簡単だけれども、それでは聖書の言葉が実現しないといわれるのです。イエスさまは目の前の災いを遠ざけることよりも神の御計画が行なわれることを優先するのです。
・ここに救い主であるイエスさまと、イスカリオテのユダとの明確な違いがあります。目の前の苦難から逃れることを求めるか、神の御計画の実現を求めるかということです。
。当然ながらイエスさまとイスカリオテのユダを対等に比べることなどできませんが、神の御子たるキリストと罪人たる人間の一番の違いがここに表れているのです。
・むしろここにこそイエスさまの十字架への道の最大の理由が含まれているのです。私たちは神の思いに従うよりも、自分の思いが満たされることを第一にしてしまうということです。
・イスカリオテのユダの不正から始まるイエスさまの受難の道は、神の救いの御業として用いられていくのです。それは神から離れてしまっている私たち人間を、神の方へと向き直らせて再び神と共に生きる道へと導いてくださることに他なりません。ここにこそまことの救いがあります。
・私たちがまことに生きるための道があると言い替えることもできます。神から離れて私たちは生きることはできないからです。いや神と共に生きる時に初めてまことの命を生き始めることができる者とされるのです。
・50節にあったようにイエスさまを裏切り、受難の発端となった人物に対してすらも「友よ」と呼びかけてくださるイエスさまです。イエスさまの深い憐れみに満ちたひと言です。
・26.23,24をみると「イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」」とまで言われています。
・これ以上にない厳しい言葉を突き付けられたイスカリオテのユダでした。立ち直ることができないほどの厳しい言葉です。それほどまでに深い罪が裏切る者にはあるのです。
・しかしそれでもなおイエスさまは「友よ」と呼びかけてくださいます。決して見捨てることなく、友としていて下さるのです。イエスさまはまことの友として私たちと共にい続けてくださる方なのです。
・教会は血縁としての家族関係としてではなく、信仰を共にする交わりの中に与えられる中で与えられる神の家族関係であり、イエスさまをかしらとする神の家族といわれます。
・イエスさまを救い主、神の子として信じる信仰によって一つとされた信仰者の交わりであるキリストの教会は、地上にあっても神と共に生きる交わりとして建てられていくのです。
・この土台にはキリストの十字架があります。誰もが逃げ出したいと思うような深い苦しみ、自分が受ける必要のない災いを一身に受けられたイエス・キリストによる唯一無二の受難の出来事です。
・私が受けるべき深い罪と裁きを代わりに負ってくださったイエスさまがいて下さるのです。あなたのためにその命を用いてくださるまことの友として受難の道を歩んでくださったのです。
・イスカリオテのユダの裏切りから始まる受難の道であるのと同時に、それ以前の旧約の時代から、アダム以来神の前から身を隠そうとする私たち人間の罪を救う神のご計画は既に始まっていました。
・そして今も私たちに向けて救いの御業は行われ続けているのです。あなたが自らの罪に気付き、救いを求め、信仰をもって歩み始めることを求めて待っていてくださいます。
・主イエスがまことの友としていて下さり、神と共に歩む人生が与えられる恵みに感謝をもってイースターまでの歩みを進めてまいりましょう。











私どもは宗教改革以来の改革派の信仰に立つ正統的なプロテスタント教会の一つです。
世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)、モルモン教、ものみの塔等とは、一切関係がありません。




今週の聖句 
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書
       3章14節15節より

教会全景

   礼拝堂
玄関
玄関ホール
納骨堂
 このホームページに引用される聖書は「聖書 新共同訳」であり、
その著作権は以下に帰属します。

(c)共同訳聖書実行委員会 
 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

© 2020 Toyohashi Chubu Church
  〒440-0864 豊橋市向山町字七面89-1 
日本基督教団 豊橋中部教会
TEL :0532-52-6894
MAIL:kyoukai@toyochubu-ch.org 
牧師 阿部 啓(あきら)